@KoJunKan

Hideo Saito

どんなことを自問自答することが多い?

「私は私の欲望に譲歩してはいないか?」
これはもちろんラカンの「罪があると言いうる唯一のこととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します」(『精神分析の倫理』)という有名なテーゼを踏まえたものです。
より一般的には「欲望に譲歩するなかれ」という倫理的な「当為命題」になります。
私がラカンを「正しく」理解しているかどうかはともかく、心理療法家は、クライアントに向き合う前に、「自分の問題を解決していること」が要請されます。あらゆるすべての問題を解決することなど、もちろん不可能なので(なぜなら「あらゆるすべて」を認識することは不可能だから)、これは不可能な要請なのですが、せいぜい「クライアントの問題=症状に巻き込まれない程度には、タフな状態を保つ」ということと解釈しています。
「私は私の欲望に譲歩してはいないか?」という問いかけは、二重の意味で困難さを持っています。
(1)そもそも「欲望」とは「他者の欲望」なのだから、「私の欲望」などとみなした時点で見誤っている。
(2)仮に「私」にその結果をもたらしている、「欲望の原因」(欲望の目標や対象とは異なる)を知ることができたとしよう。しかしそのときにそれを「知っている」と考えている「私=自我」とは想像的なもの(イマジネール)なのだから、知っていると思うことそれ自体が誤謬である。
別にラカン的に考える必要もなく(そもそも私は自分のセッションで精神分析「的」手法は用いません)、困難にぶつかって思い悩む必要もないのですが、このラカン命題はすべての心理療法家にとっての倫理だと私は考えています。
欲望に譲歩しないため、具体的に行うことといえば、生き延びるうえで重要なことに優先順位をつける、ということです。
「生き延びるうえで」としたのは、私は、なんとなくですが、「今日を(死んでしまわずに)なんとか生き延びたい」「できれば、明日も生き延びたい」という「私の欲望」を感じ取っているからです。
難しいのは、「できれば、2年後も生き延びたい」というふうに拡張していくと、「それでは、この欲望にはちょっと引っ込んでいてもらって(譲歩してもらって)、こっちの欲望を優先させよう」というメンタリティが働いてしまうことです。
キャリアをプランするという観点からすると、欲望の譲歩は不可避のように思われますが、それでは(2年後には生き延びられるかもしれないが)今日や明日を生き延びることが困難になります。
そういう意味でも、せいぜい一週間後にも生き延びることができる、という程度の幅で、優先順位を考えることが大切だと感じています。

Latest answers from Hideo Saito

どうしたら人は幸せになれるのですか?

「幸せ」つまり「幸福」という言葉の定義がわからないのですが、もし、「絶望していないこと」「不幸ではないこと(不幸であると感じていないこと)」というのを暫定的にその定義とするなら、一般的には、
(1)生存するのに最低限必要な衣食住をまかなえるインカムがあること
(2)完全に孤立してしまわないような最低限の親密さをもった人的リソースを活用できること
(3)「これがなくなったら生きていけないかもしれない」という対象(好きな仕事や趣味など)がもしあったら、それが不足していないこと
以上の3点が必要条件になります。
しかしこれは一般論でしかありません。
というのも、世界的にトップレベルのインカムがあり、愛情あふれる家庭を持ち、好きでたまらない仕事をしている人であっても、絶望を感じてうつ病になり自殺する人もいます。
逆に、公園の水道から水分を得る以外になく(住所が無いため生活保護も受給できない)、友人知人もなく、生きがいも持たないような人でも、まったく不幸であるという実感を持たない人もいます。
自殺する人について考えてみると、「必要条件を満たしているが、それでも不幸だ」と感じているのか、「幸福だが、絶望している」と感じているのか、これも人それぞれだと思います。
後者の、「幸福だが、絶望している」タイプの人から得られる教訓は、【幸福だからといって生き延びられるとは限らない】ということです。絶望しているからといって必ずしも自殺には結びつきません。むしろ、絶望をあえて受容し、相対的な幸福を相対的に楽しみながら、死によって解放される日をひたすら待つ、という人生を選択した人を、私は数え切れないほど知っています。
自殺を選択する人は、こうした「あえて」の人生に耐えられなくなった人たちです。
前者の、「それでも不幸だ」というタイプの人から得られる教訓は、【幸福が欲望と結びついている場合には、永遠に幸福になることはない】ということです。精神分析的に言えば、欲望とは「決して満たされることのない欲望を持ちたいという欲望」です。お腹が空いて、一食食べれば解消されるようなものは、「欲求needs」と呼んで、「欲望desire」とは区別されます。
この意味で、「人間」にとって「欲求」と呼びうるものは、食欲と睡眠欲しかありません。それ以外はすべて「欲望」です。ちなみに「空腹(感)」と「食欲」は別ですし、「食への依存」もまた別なので、あなたの食欲が本当に欲求であるのかは怪しいのですが。
分析哲学で「幸福」という概念が使われることがあります。あらゆる命題には「真」か「偽」かの値があるはずだという主張に対し、しかし、日常言語には真とも偽とも言えない言明があるではないか、という反論がありえます。それに反駁する時、日常言語に見られる真偽の値を持たない言明は「命題」ではなく、かといって無意味なのでもなく、たんに「幸福」なのだ、というような場合です(かなり省略しています)。「幸福」はこの場合、言語活動が上手くいったときの「値」になります。
「人間は幸福だ」という言明はどうでしょう。これだけでは真偽の値をとれませんね。人間とは何で、幸福とは何で、という定義(条件・前提)が在って初めて、「したがって」と結論付け、真偽の値が決まります。では、主語を固有名にして「A氏は幸福である」はどうか。これも定義があれば結論が出ますが、仮にそのような定義が在っても、いきなりそんなことを断言されたA氏は困ります。では本人に聞けばよいでしょうか?本人が「幸福だ」と言ったとして、それをどうやって証明するのでしょう?これはますます決定不能です。
しばしば誤解されることですが、精神分析の目標は心の悩みを持つ(=不幸な)患者を治療して悩みから解放する(=幸福にする)こと、【ではありません】。フロイトは「神経症者の苦悩を、ありふれた不幸に変えてしまう」と言っています。ここで「神経症者」とは、精神医学的には、精神の障害(=症状)を持った人のことです。精神分析的に言えば、症状とはそれ自体が「解決」です。通常「健康」とされている人々は、すべて神経症です(少なくとも近代社会においては)。問題を抱えた人は、そのような神経症にならずに、症状化することで(症状の次元へ抑圧することで)問題の解決を図ってしまっています。その抑圧という現実に向き合わせることができるのは、いまのところ精神分析しかありません。
いくつかの教訓を引き出しておきましょう。「どうしたら人は幸せになれるか?」への回答です。
(1)なれません。永遠に満たされることのない幸せを希求する欲望によって存在させられているのが人間の定義だから。
(2)人と幸せの2つの単語の定義による。ただし定義してみたところで、現実に固有名を持った人の実感とはなんの関係もない。
(3)決して満たされることのない欲望に駆動されていることを知り、不可能であることを知りつつ、「最善をつくす」ための優先順位を明確にして生きることが、もっとも幸福に近い場所にいる。

View more

恋愛関係で一番避けたいものはなんですか?

「交叉的交流と裏面的交流」
「交叉的交流」も「裏面的交流」も交流分析(Transactional Analysis;TA)の用語です。交流分析は、主に人間関係から生じる問題を解決するために用いられる古典的心理療法です。
交流分析と一言で言っても、道具立てはたくさんあるのですが、そのなかでも「対話分析」においては、「自我状態」という、ちょっとやっかいな概念を使います。
「ちょっとやっかい」というのは、ひとつには「単純すぎ」て使いづらいからで、もうひとつには「複雑すぎ」てやはり使いづらいからです。
ツールが単純すぎることで、扱う事態が複雑になりすぎることを、システム理論では「複雑性の縮減による複雑性の増大」といいます。
私はシステム理論にのっとった心理療法を行っているので、(TAによってレディメイドされた)自我状態という概念を臨床的に持ち込むのは「非常にやりにくい」と感じています。
それはともかく、具体例をみなければ、何を言っているのかわかりませんね。
(TAによってレディメイドされた)自我状態には、P(親)A(成人)C(子ども)の3種類があります。
さすがに3種類では単純すぎるという場合は、Pを「批判的な親」「援助的な親」のふたつに、Cを「自由な子ども」「順応な子ども」のふたつに分けます。
冒頭で「交叉的交流」と「裏面的交流」を避けたい、と述べましたが、避けるべきでないスムーズな交流からみましょう。
(例1)
A:「アイス食べたい!食べよ!」(CからCへの交流)
B:「いいね!私はシェイクにするよ!」(CからCへの交流)
(例2)
A:「部屋は片付いているの?」(PからCへの交流)
B:「わかってるよ!いまやるって!」(CからPへの交流)
これらのように、メッセージの発信地と到着地が、意図されたものと同じ自我状態である場合、対話はスムーズです。
これを「相補的交流」といいます。
一般に、「同じ自我状態での交流が相補的」と言われますが、例2のように、発信地=Aが意図した到着地=Bの自我状態が、発信地のものと異なっていても(「AはP、BはC」とAは意図している)、応答する側=Bが、AがBに対して想定した自我状態を読み取り、さらにAの自我状態を読み取った返答をしていれば(「AはP、BはC」とBも意図している)、相補的なものとなります。
この時点でややこしいと思うのですが……。
つぎに、問題となる「交叉的交流」をみましょう。
(例3)
A:「報告書をまとめてもらえますか?」(AからAへの交流)
B:「わかってるよ!いまやるから!」(CからPへの交流)
(例4)
A:「何時に帰ってくるの?」(AからAへの交流)
B:「何時に帰ってこようともあなたに文句を言われる筋合いはないわ!」(CからPへの交流)
ここで、例3も例4も、「行き違い」「ちぐはぐな」交流をしていることが読み取れますが、いずれもBは怒っています。
怒っている場合のみ交叉的になるわけではありませんが、近年の非常に簡略化された交流分析のテキストでは、「怒っている時の自我状態はP」と断定するものが多いので、ここで例にしました。
簡略バージョンでは「これはどの自我状態だろう」と悩む必要がないという点で便利ですが、「腑に落ちない」という欠点があります。
例4などは、典型的に「親から監視されている・束縛されているような感じを持ってしまったBの自我状態」は子どものものだと言えます。
もうひとつ「交叉的交流」の例をあげます。
(例5)
A:「昨日のM-1見た―?あの緑のシャツ着たほうがさあ、すげーおもしろかったよな」(CからCへの交流)
B:「いや、彼が着ていたのは青のシャツだったよ」(AからAへの交流)
これは典型的なアスペルガー的コミュニケーションですが、この場合、2次元で表そうとすると、「交叉」していないように見えます(たんに「行き違っている」ように見えます)。
これも対話分析の難しいところ、と私は考えているのですが、2次元上で交叉(ないし交錯)していなくとも、行き違っていれば「交叉」になります。
つぎに「裏面的交流」をみましょう。
(例6)
A:「遅れるなら連絡すべきではないでしょうか」(AからAへの交流)
B:「ごもっとも。あなたの言うとおりです」(AからAへの交流)
これが「裏面的」というのは、Bは内心「連絡できないことだってあるだろう…」と不満を持っているからです。
これを「明白なレベル」と「心理的なレベル」と区別するのが交流分析(の対話分析)の特徴です。
一般に、この裏面的交流が非常に厄介なもので、主にA同士の交流によくみられる、と言われています。
この裏面的交流に至って、私は非常に難解なものを感じるのですが、というのは、Aのセリフは、明白なレベルでは冷静な判断を述べているだけに見えますが、「遅れるなら連絡しろよ!」と怒っている心理的レベルが想定されます(この場合はPからC)。
もうひとつの裏面的交流。
(例7)
A:「ボウリング行かない?」(AからAへの交流)
B:「行く。ちょうどボウリングしたかったところなのよ」(AからAへの交流)
これは、明白なレベルではA→Aなのですが、心理的レベルではC→Cです。つまり、Aはデートに誘っているわけで、Bはデートに誘われて嬉しい、と表現しているわけです。
こうしたやりとりは日常的に頻繁に行われており、微笑ましくもあるのですが、恋人同士のような情緒的関係では、「必ず裏にCがある」と想定しがちで、これが泥沼化していくきっかけになります。
あるいは俗に「心理戦」などというように、企業の同じ組織内で働きながら、チームであることから表立った攻撃や批判、足の引っ張り合いはできないけれども、裏面的にネガティブなメッセージを持っていたりすると、とても気持ちの悪い交流になります。
こうした交流を「邪悪なゲーム」と呼ぶ人もいますが、「ゲーム」という概念は、交流分析ではまた重要な意味を持っているので、安易に使うことはできないと私は考えています。
裏面的交流の失敗例をみましょう。
(例8)
A:「ボウリング行かない?」(明白レベル=AからA:心理レベル=CからC)
B:「ボウリングが好きなのね。私はあまり好きじゃないから行かない」(AからAへの交流)
これも典型的なアスペルガー的交流ですが、そう言えるのは、BはAに好感を持っていることが前提です。
つまりアスペルガー患者には、「うーん、ボウリングあまり得意じゃないから…カラオケでもどう?」と返すのがベターだ、と指導することになるのですが、そもそもAの交流が「好意の伝達」だということに気づくことが難しいので、こうした指導も難しいものになります。
また、これをアスペルガー患者でない、ストレートな男女間の会話だとすると、Bはやはり心理的レベルに「あなたには好感を抱いていない。デートはお断り」というメッセージがあり、これは「成功した裏面的交流」と言えます。
裏面的交流は親密さを演出する技術ではあるのですが、葛藤を生む、または葛藤状態で生じるコミュニケーションなので、避けるのが無難です。

View more

許されざることとはなんですか?

「欲望に譲歩すること」
昨日ぼくは「どんなことを自問自答することが多い?」という質問に、「私は私の欲望に譲歩してはいないか?」と答えた。
そしてこれはラカンの当為命題だとも述べた。
このラカンの当為命題が難しいものであることは、主に次の2点にある、と述べた:
(1)欲望は他者の欲望であるから、「私の欲望」とみなした時点で錯覚である
(2)「私=自我」とは想像=鏡像=イメージであるから、「私が欲望を持つ」とは誤謬(フィクション)である
しかし、抹消線をひかれた主体――存在を失っている・いかなる象徴界=シニフィアンの対応関係をも持たない・語り得ないがゆえに語り続けることを宿命付けられている――であるがゆえに、主体は欲望を満たそうと四苦八苦する。
このへんのラカン理論はややこしい、というか、知らない人には何を言っているのやらわからないところがあるとは思うけれど、ものすごーく噛み砕いて言うと、「人間は人間になった瞬間から欠如・空虚・無を背負わされており、その空無を埋めるために、自己の『かつてはあったはずの存在』への郷愁に駆り立てられる」とでも定義できると思う(さしあたりだけど)。
ラカンも、ラカン派のジジェクやジュパンチッチも、こうした「主体」概念に辿り着いた起源をカントに見ている。
当為命題といえばカント、と言っても良いぐらい、最近の倫理をめぐる言説にはカントの名前がよく出てくる。
カントの当為命題、つまり倫理学は、定言命法でなければならない。つまり仮言命法であってはならない。
「~ならば」という、条件付きのものであってはならない。
仮言命法の場合、「幸福になりたいならば」とか「目標を達成したいならば」とか「神に認められたいならば」とか「善きことをしたいならば」とか、さまざまな条件がくっつく。つまりそこで「善」は「手段」でしかないのだ。
ラカン-ジュパンチッチの倫理学では、カントはそこで欲望によって主体が成立するという事実に直面しているのだが、その事実の前で立ちすくんでいる(ひるんでいる)としている。ラカン-ジュパンチッチはカントをさらに押し進めて新たな倫理学を構築しようと企む。
ラカン-ジュパンチッチの倫理学で用いられる題材は『アンティゴネー』なのだが、この使い古された題材を扱うことへは批判が多いし、ぼく自身、これはどうなんだろう、こじつけっぽいなあ、と感じるので、アンティゴネーには触れずに、要点だけ述べよう。
・すでに述べたように、欲望は他者の欲望である
・他者とはまず第一に象徴界=シニフィアンのシステムである。これを「大文字の他者」とよぶ
・象徴界を認識することはできず、主体は象徴界から、ただ背後から呼びかけられるだけである
・この象徴界からの呼びかけを受け取っている主体はすでに存在を失っている(抹消線を引かれたS)
・欲望は決して満たされることがない
・むしろ、「満たされない欲望を持ちたいという欲望」が欲望の姿である
・逆に、満たされるものは「快」であり、これは「享楽」を得ることを防ぐ防衛機能である
・欲望に譲歩するな、という当為命題は、「本当の」欲望の対象-原因を諦めるな、ということである
・当たり前だがこれは不可能な命題である(「本当の」欲望などというものがどこかにあるわけではない)
・その不可能性によって空虚な主体はさまざまな可能性をもつ(主に、行為の可能性)
・主体は、まず想像=鏡像=イメージ=表象として与えられる対象を「これではない」と否定しなければならない(そこで満足した錯覚を得てはならない)
・次に、根源的な欲望の原因たる「対象a」に対しても、「これではない」と否定をつきつけなければならない
・もし、その否定を実行できたならば、欲望から純-欲望、さらに欲動へと移行することができる

View more

Language: English