第二性と第三性の区別を確認したいのですが、具体的な二つのもの(例えば、「我」と「非我」)が向き合っているのが第二性ですよね。目の前の「猫」と、「我」の中にある「猫」一般とを対比する場合には、判断や命題となって、第三性になるのではないですか?純粋な第二性というのが、わかりにくい。
目の前の猫を認識する場合、判断や命題という第三のものが形成されるのではないか、というのは全くその通りです。純粋な第二性というのは実はどこにも存在しないのです。第一性、第二性、第三性というのはカテゴリーで、カテゴリーというのは現象の普遍的な要素ですから、あらゆる現象に第一性、第二性、第三性すべてが混在しているはずです。もし、第三性から切り離された純粋な第二性なるものがあるとすれば、第三性がカテゴリーでないことになってしまいます。これはもちろん受け入れ難い結果です。
猫を認識する例で言えば、「これは猫である」のような判断の中に第二性が含まれています。具体的には、「これ」という指示詞がそうです。「~は猫である」という述語は、現実の場面にまだ適用されていない一般的な概念です。いわば「不飽和」の命題です。これを飽和化させるには、現実の場面と何らかの仕方でリンクさせる必要があります。そのリンクの役割を果たすのが主語で、指示詞はその最も純粋な形態です。こうした現実の世界とのリンクが知覚判断のコントロール不可能性の起源になります。
ところで、純粋な第一性や第二性や第三性が存在しないのであれば、そもそもどのようにしてそれらを区別できるのか、疑問に思われるかもしれません。そこで重要な役割を果たすのが、パースが「前切」(prescission)と呼んでいる概念分離の操作です。一般的に「抽象」と呼ばれている操作です。どのカテゴリーも純粋な形態では現象の中に存在しませんが、第三性から第二性を、そして第二性から第一性を前切(抽象)することができます。この抽象可能性が、第一性、第二性、第三性が相異なるカテゴリーであることを保証します。
猫を認識する例で言えば、「これは猫である」のような判断の中に第二性が含まれています。具体的には、「これ」という指示詞がそうです。「~は猫である」という述語は、現実の場面にまだ適用されていない一般的な概念です。いわば「不飽和」の命題です。これを飽和化させるには、現実の場面と何らかの仕方でリンクさせる必要があります。そのリンクの役割を果たすのが主語で、指示詞はその最も純粋な形態です。こうした現実の世界とのリンクが知覚判断のコントロール不可能性の起源になります。
ところで、純粋な第一性や第二性や第三性が存在しないのであれば、そもそもどのようにしてそれらを区別できるのか、疑問に思われるかもしれません。そこで重要な役割を果たすのが、パースが「前切」(prescission)と呼んでいる概念分離の操作です。一般的に「抽象」と呼ばれている操作です。どのカテゴリーも純粋な形態では現象の中に存在しませんが、第三性から第二性を、そして第二性から第一性を前切(抽象)することができます。この抽象可能性が、第一性、第二性、第三性が相異なるカテゴリーであることを保証します。