@asonosakan

阿蘇の史(さかん)

第二性と第三性の区別を確認したいのですが、具体的な二つのもの(例えば、「我」と「非我」)が向き合っているのが第二性ですよね。目の前の「猫」と、「我」の中にある「猫」一般とを対比する場合には、判断や命題となって、第三性になるのではないですか?純粋な第二性というのが、わかりにくい。

目の前の猫を認識する場合、判断や命題という第三のものが形成されるのではないか、というのは全くその通りです。純粋な第二性というのは実はどこにも存在しないのです。第一性、第二性、第三性というのはカテゴリーで、カテゴリーというのは現象の普遍的な要素ですから、あらゆる現象に第一性、第二性、第三性すべてが混在しているはずです。もし、第三性から切り離された純粋な第二性なるものがあるとすれば、第三性がカテゴリーでないことになってしまいます。これはもちろん受け入れ難い結果です。
猫を認識する例で言えば、「これは猫である」のような判断の中に第二性が含まれています。具体的には、「これ」という指示詞がそうです。「~は猫である」という述語は、現実の場面にまだ適用されていない一般的な概念です。いわば「不飽和」の命題です。これを飽和化させるには、現実の場面と何らかの仕方でリンクさせる必要があります。そのリンクの役割を果たすのが主語で、指示詞はその最も純粋な形態です。こうした現実の世界とのリンクが知覚判断のコントロール不可能性の起源になります。
ところで、純粋な第一性や第二性や第三性が存在しないのであれば、そもそもどのようにしてそれらを区別できるのか、疑問に思われるかもしれません。そこで重要な役割を果たすのが、パースが「前切」(prescission)と呼んでいる概念分離の操作です。一般的に「抽象」と呼ばれている操作です。どのカテゴリーも純粋な形態では現象の中に存在しませんが、第三性から第二性を、そして第二性から第一性を前切(抽象)することができます。この抽象可能性が、第一性、第二性、第三性が相異なるカテゴリーであることを保証します。

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パースとマッハはお互いの思想をどのように考えていたのでしょうか?またパース哲学はマッハ主義とどのような関係なのでしょうか?

Keisuke Oosaka
PeirceはMachの「思惟経済」の原理を唯名論的だとして批判しつつも,彼を高く評価しています:「Machは,一般的思考には経験を効率化するうえでの有用性以外に価値がないという立場を取る点で,的の中心を捉え損ねているが,的そのものは射ている」(MS 332)
PeirceはMachの『力学史』の英訳にも関わっていて(Writings of Charles S. Peirce, Vol. 8のIntroductionを参照),Machの関係主義的力学(絶対空間と絶対時間を否定し,それらを仮定せずに力学を構築するというプログラム)によく言及しています.彼は,当時の大半の物理学者と同様,Machを批判して絶対空間と絶対時間の実在性を擁護しています(詳しくはRandall R. Dipert, "Peirce on Mach and Absolute Space"を参照)
他方でMachがPeirceに言及している箇所は知らないです.「パース哲学」や「マッハ主義」と一口に言われても,それぞれが何を指しているのか分からないです.

エイムズ先生が学部時代は社会学を専攻されていたと知り、相談をさせていただきたいと思います。 私は現在、大学で社会学を勉強・研究している学部生なのですが、もともと思想に関心があり、大学院では哲学をちゃんと勉強したいと考えています。 そこで伺いたいのですが、社会学から哲学へと専攻を変えた経緯について詳しく教えていただけないでしょうか。もともと初めから哲学に進路を変えるおつもりだったのでしょうか。また、変える際に困ったことはありましたか。 突然の個人的な経歴についての質問で申し訳ありません。社会学から哲学に、という方を見たことがなく、伺いたいと思ったのですが、ご不快でしたらお詫び申し上げます。

確かに学部二年のときに一学期の間だけ社会学系の研究室に籍を置いていたことはありますが,社会学を専攻していたと言えるほど勉強したことはないです.学部時代の専攻は(この一学期を除けば)哲学です.
学部一年の頃は漠然と社会学に興味があり,だからこそ当初は社会学系の研究室への配属を希望したのですが,社会学の授業を受けているうちに,統計的調査や質問紙調査といった方法に違和感を覚えるようになり,社会科学の方法論の問題を追究できる哲学に鞍替えしました(主に政治哲学を研究している研究室に移り,Hayekについて卒論を書きました).同じ学部内の研究室への移動でしたし,まだ学部二年生だったので,特に困ったことはなかったです(参考にならなくてすみません)

構造実在論についてもう少し詳しく教えてください。数学的構造とはなんですか?

数学で構造というと,集合に何らかの数学的対象(要素間の関係や,要素に対する演算など)を付加したものです.例えば実数の集合に通常の大小関係を付加すると全順序集合という構造になりますし,通常の乗法と加法の演算を付加すると体という構造になります.現代の多くの数学者は,数学は構造を扱う学問だと考えていると思いますが,20世紀中葉にこの数学観を広めたBourbakiは,数学的構造を代数構造・位相構造・順序構造の三種類に区別したようです.
数学の哲学における構造主義で言われる「構造」は,上述の構造とは少し違います.上述の意味での構造,つまりある集合に何らかの数学的対象が付加されたものを「体系」と呼ぶとすると,数学の哲学で言われる「構造」は,個々の体系が共有する抽象的な形式のことです.例えば,{0, 90, 180, 270}という集合に360を法とした加法の演算を付加した体系と,{1, i, -1, -i}という複素数の集合に乗法の演算を付加した体系を考えます.これらはともに,平面上の90度の回転を表す「同型」な体系です.両者は,同じ抽象的構造の二つの異なる表現です(この抽象的構造は「位数4の巡回群」と呼ばれるものです).数学の哲学で言われる「構造」は,このように個々の体系が持つ具体的な要素や対象を度外視した抽象的な構造のことです.
数学の哲学における構造主義は,数や関数や集合といったような数学的対象は,それ自体で何らかの本性を持っているのではなく,数学的対象は,何らかの構造の中でそれが占める位置に他ならないという立場です.例えばPeanoの公理系を満たす構造を自然数構造と呼ぶとすれば,1,2,3といった自然数は,それらが自然数構造の中で占める位置以上の意味を持っていないということです.構造の概念をどう理解するかによって構造主義の中にも様々な立場があります.詳しくはIEPの記事(https://www.iep.utm.edu/m-struct/)やスチュワート・シャピロ『数学を哲学する』の第10章などを参照して下さい.

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このツイートの出典を教えてください。 https://twitter.com/peirce_bot/status/1040420115194376192?s=20

A. C. Fraser編纂の『バークリー著作集』に対する1871年の書評です:"Do things fulfil the same function practically? Then let them be signified by the same word. Do they not? Then let them be distinguished" (W 2:483, EP 1:102)
原文に「二つ」に相当する表現はないですが訳では補っています.

来年あたりに、勁草書房から新しくパース著作集が出るそうですが、旧著作集と比べてどのような刷新があるか、お考え等ありましたら是非ともお聞かせください。よろしくお願いします。

旧著作集はCollected Papersからの抜粋集でしたが,新著作集はThe Essential Peirceの翻訳です.詳しいことはまだよく分かっていません.

阿蘇の史さんは情報概念が哲学にとって重要だと考えているような印象を受けるのですが、そういった観点の研究がまとまったものはあるでしょうか?また、情報理論を用いてそうした研究を形式的に扱えるようにしたものは(ドレツキの認識論以外に)ありますか?

私が情報概念に興味を持っている理由の一つは,それが普遍者の問題に関わっているからです.普遍者というのは何らかのパターンです.例えば「塩酸性」という普遍者は,「アルミニウムを入れると,アルミニウムは溶けて水素ガスが発生する」,「電流を流すと陰極に水素ガス,陽極に塩素ガスが発生する」といったような一連の現象のパターンを体現している(そのようなパターンをまとめて表示している)と考えることができます.そしてパターンというのは情報理論の道具立てで取り扱うことができます.
私自身が特に影響を受けているのは,Dennettの"Real Patterns"という論文です.そこで彼は,Chaitinのアルゴリズム情報理論を踏まえながら,パターンの有無をデータの「圧縮可能性」によって定義しています.この論文の中心的な主張は,一般にパターンはそれを識別する(現実的もしくは潜在的な)観測者がいて初めて存在し得るという意味で観測者に依存するが,同時に,それに基づいて未来の現象を高い蓋然性で正しく予測できるという意味でリアル(観測者独立的)なパターンも存在する,というものです.Dennettのこの論文は,新しい時代のスコラ実念論の基礎を提供する名編だと私は思っています(本人にそのつもりは全くないでしょうが).またLadyman & RossのEvery Thing Must Goでは,Dennettのパターン論を踏まえた独自のパターン論が展開されています.そこでもアルゴリズム情報理論の概念が使われています.
上述のDennettとLadyman & Rossの著作は,情報概念と哲学との関わりについてのまとまった研究とは言い難いですが,そのようなまとまった研究としてはFloridiのThe Philosophy of Informationと,The Routledge Handbook of Philosophy of Informationがあります.情報の哲学といえば,Floridiが提唱している分野で,情報概念を哲学的に考察するとともに,情報理論を使って様々な哲学的問題にアプローチするというものです.他にも,値は張りますがHector Zenil編集のA Computable Universe: Understanding and Exploring Nature as Computationという論文集があります.自然が一種の計算機である,あるいは何らかの意味で情報が実在の根源的な要素であるという観点から,計算について論じるという趣旨の本です.

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パースの解説書は和書だとどれがいいんでしょうか? (パースの著作は岩波文庫の「連続性の哲学」を読んだのですが、あまりわかったという感覚がありません)

最近日本語訳が出たDe Waal先生の本をお勧めします.https://www.amazon.co.jp/dp/4326154470

「第二性(個体化の原理、連続体の切断)が現在において働いてない(排中律P∨¬Pが成り立たない)が、将来働きうるもの」というのは現在は概念として定式化されていないが未来では概念として定式化されるものは、未来態における存在に含まれるのかを質問したつもりでした

Peirceの言うesse in futuro(以前は「未来態における存在」と訳しましたが単に「未来存在」と訳した方が良い気がします)は"would-be"の様相を持つもの(第三のもの)です.例えば種子の例で考えると,種子はいずれ植物に成長する潜在性を持っていますが,これは単なる可能性(第一のもの)ではなく,もし条件(栄養のある土壌,十分な水,光,空気など)が揃えば必ず実現されるであろう積極的な力です.
「現在は概念として定式化されていないが未来では概念として定式化されるもの」が何を指しているのかよく分かりませんが,もしそれが上記のような力を備えているのならesse in futuroに含まれますし,そうでないなら含まれません.

論理実証主義とパースはどういう関係にあるのでしょうか。同時代で全く異なる形而上学観を持っていれば批判の応酬もあったのかなと思いますがどうでしょう。

同時代ではないです.Peirceは1914年に亡くなっていますが,論理実証主義が栄え始めるのは1920年代です.

「種子的な有、つまり潜勢態における存在、あるいは私の好みの表現で言えば、未来態における存在」とは第二性(個体化の原理、連続体の切断)が現在において働いてない(排中律P∨¬Pが成り立たない)が、将来働きうるものという意味でしょうか? 「未来の事物や出来事に関する命題に対しては排中律P∨¬Pが成り立たない」というのも排中律は時間の経過によって成立する、もしくは時間の経過は排中律によって成立するからだと思うのですが

第二性が働いている時点を私たちが「現在」と呼んでいると思われるので,「第二性は現在において未来の事物や出来事に対して働いていないが,将来働きうる」というよりは,「第二性は未来の事物や出来事に対して働いておらず,第二性が働くことでそれらは現在の事物や出来事になる」と言った方が正確だと思います.
なお,排中律,矛盾律,時間,様相の関係はややこしいので整理してみます.排中律が成り立たないのは厳密には「未来の事象や出来事に関する命題」というよりは,Peirceが「条件的必然性」(conditional necessity),あるいは"would-be"と呼ぶ様相を持つ命題です.これは「もしPならば必ずQだろう」という形式の様相命題です.これに対して排中律が成り立たないというのは,「もしPならば必ずQだろう」と「もしPならば必ずnot-Qだろう」の両方が偽であり得るということです(否定演算子は命題全体ではなくQにだけかかっていることに注意して下さい).アリストテレスの海戦の例で言えば,「明日海戦が起きる」(=「もし明日になれば必ず海戦が起きるだろう」)と「明日海戦は起きない」(=「もし明日になれば必ず海戦は起きないだろう」)の両方が偽であり得るということです.現代流に言えば,必然性演算子は可能世界の集合上の普遍量化として解釈できるので,命題Qが(命題Pが成立する可能世界のうちの)一部の可能世界においてのみ成立する場合,「もしPならば必ずQだろう」と「もしPならば必ずnot-Qだろう」の両方が偽になるわけです.
"would-be"の様相を持つ命題はまだ現実化していない事物や出来事,つまり未来の事物や出来事への言及を必ず含んでいますが,逆は必ずしも成立しません.もう一つ,Peirceが「可能性」(possibility),あるいは"may-be"と呼ぶ様相を持つ命題も存在するからです.これは「Pかもしれない」という形式の様相命題です.可能命題に対しては矛盾律が成立しないとPeirceは言います.「Pかもしれない」と「not-Pかもしれない」の両方が真であり得るからです(再び,否定演算子は命題全体ではなくPにだけかかっていることに注意して下さい).アリストテレスの海戦の例で言えば,「明日海戦が起きるかもしれない」と「明日海戦は起きないかもしれない」の両方が真であり得るということです.再び可能世界意味論で言えば,命題Pが成立する可能世界と命題not-Pが成立する別の可能世界が存在する場合,「Pかもしれない」と「not-Pかもしれない」の両方が真になるわけです.
時間の経過によって"would-be"形式の命題が,現実化されている事態に関する命題(「de inesse命題」と呼びます)に転化するので,排中律は時間の経過によって成立するようになるというのは全くその通りです.他方で時間の経過が排中律によって成立するというわけではないと思います.時間はむしろ矛盾律によって成立するとPeirceは言います.それぞれは単独では可能だが共可能でないような事態の集合を考えます.この集合には,共可能な事態になろうとする傾向性,つまりすべての事態が成立したとすれば生じる矛盾律の破れを解消しようとする傾向性ががあると仮定します.すると可能性同士で「反発」が生じ(つまり第二性が働き),一部の可能性が集合から「締め出される」ようになると想定することができます.これが「現実化」の作用で,これが連続的に働くと時間の流れとして現れます.この見方に従えば,時間を生み出しているのは排中律ではなく矛盾律であると言うべきでしょう.

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