見ない権利の主張の根拠を不快感とするのは妥当なのでしょうか?例えば、私一人がある対象に個人的に不快感を訴え、見ない権利を主張したところで、ゾーニングが実現されることはないでしょう。ゾーニングを実現するには、より多くの人々がその対象に不快感を訴える必要があるはずです。しかし、そうであれば、見ない権利が保護するのは個人一人一人ではなく、時の多数派(あるいは、少なくとも一定の人数以上の集団)のみということになるのではないでしょうか。そのようなものは果たして本当に権利といえるのでしょうか?
まさにおっしゃるとおりです。私たちの社会におけるゾーニングの考え方は、どうしても功利主義的な観点に頼らざるを得ません。ある程度のまとまった人数および強度の「不快感」を、そのものが人々の目にとまることによる公共性を天秤にかけて、ゾーニングが許容されるものと考えるべきでしょう。
しかし、常に忘れてはならないのは、それは次善のやむをえない措置であり、原則はあらゆる表現が自由に流通しなければならないということであり、ゾーニングは最低限の範囲にとどまるべきであるということです。そして、その表現が社会に存在し、それを消費するという選択肢があるということを人々が知覚できないほど、あるいは消費することに多大のコストを払わなければならないほどに不可視化するべきではない、と私は思います。
そのあたりのバランス感覚は非常に難しく、ゾーニングはやむをえないといっても、それが過度のものにならないように私たちは常にあり方を議論し続ける必要があると思いますし、行政サイドも「表現の自由」にかかわる問題であることを十分に意識して取り扱うことが求められるでしょう。
しかし、常に忘れてはならないのは、それは次善のやむをえない措置であり、原則はあらゆる表現が自由に流通しなければならないということであり、ゾーニングは最低限の範囲にとどまるべきであるということです。そして、その表現が社会に存在し、それを消費するという選択肢があるということを人々が知覚できないほど、あるいは消費することに多大のコストを払わなければならないほどに不可視化するべきではない、と私は思います。
そのあたりのバランス感覚は非常に難しく、ゾーニングはやむをえないといっても、それが過度のものにならないように私たちは常にあり方を議論し続ける必要があると思いますし、行政サイドも「表現の自由」にかかわる問題であることを十分に意識して取り扱うことが求められるでしょう。