@fuzukiyumi

文月悠光 Fuzuki Yumi

お誕生日おめでとうございます。直近1年を振り返っての感想や、今後の1年についての目標・抱負があれば聞かせてください。

振り返ってみると、去年の今頃はすごく甘えていたなと思います。学生という肩書きが無くなったのに、いつまでも喪失感が引かなくて、ほとんど心が無い状態でした。去年の終わり、長いこと「会いたいな」と願っていた人たちとお話しする機会があり、だんだんと持ち直して。1月にドバイに滞在した際、今までの負が全てプラスに変わるような、裏返しになる体験をしました。「なんで7周年?」っていっぱい聞かれましたが、人にはわからなくても、私にとってはこの1年がひとつの節目だったように思います。
どれだけ変われたかわかりませんが、これからの1年は「目の前の人」をちゃんと大事にしたいです。これは「真っ黒な感情を運んでくる人との繋がりを断つ」という意味も含んでいます。人に言いかけて止めてしまうことが沢山あるのですが、そんな愚行も少なくしていきたいです。自分も相手の方々もいつ死ぬかわからないですし。
仕事では新しい挑戦をさせてもらっています。吉と出るか凶と出るか、どきどきです。新しい試みを楽しんでいるので、そのことで嫌われても諦める覚悟でいます(どんなに覚悟していても、傷つくときは傷つくし、傷つくだけで終わる、ということも無いでしょうから)。〈女子力コンプレックス〉のような、女性の方に来てもらえるイベント企画も練りたいです。トークの力を磨きます。
……などとブツブツ考えていたら、誕生日から10日近く経ってました。すみません。24歳の文月悠光もよろしくお願いします。

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何も書きたくなくなるときはありますか?

そういうときがあれば、何も書きたくない、という気持ちを日記に綴ってしまうと思います。いつも何かしら書きたいようです。やる気満々でも筆が進まないことはあるので、難しいところですが。ただ仕事の原稿を書く場合には、どんなに調子が悪くても完成しています、ふしぎと。「終わり」があるって重要ですね。

何者かになりたくてとほうにくれています。文月さんはわたしにとってとてもかっこいい女の人です。待っていてくれますか。

恐縮です。「何者かになりたい」気持ち、私も未だにあります。でも、結局は「何者かになった振り」が上手になるだけかもしれない。肩書きがあることで安心してしまったり、自分を知ることを怠ったり。だから「何者か」に自分を寄せていっても、ロクな目に遭いません。
それで、最近心に決めたことがあります。醜い部分とか、だらしない部分、荒削りなところを少しずつ出していこうと。認めていこうと。逆にあなたに聞きたいです。それでも追ってくれますか。

文月さんのことを大切に想ってくださるひとと出会ってほしいです。そのひとのことを文月さんも特別だと感じられるような、そんなひとがあらわれてほしいです。 余計なお世話でごめんなさい。

自分の中でだけ「特別」を温めているのが好きです。関係よりも、手元に育つ自分の感情が大事なんでしょう。
「真実の愛は幽霊のようなものだ。誰もがそれについて話をするが、それを見た人はほとんどいない」

匿名で言うことではないことは100億も承知ですし質問でもないんですけど、文月さんにはもっと男性と関わったり、あるいはもっと深い関係になってほしいなと感じてしまいます。 非難するわけではないんですが、ときどき男性に偏見を持たれているのかなと少し悲しくなるときがあります。

男女限らず、踏み込まれてよい距離というのは相手によって違うものです。深い関係に至らなくても、距離を了解し合っている相手には心ゆるしますよ。男性について強く言うのは、相手の「目的」や「建前」を感じ取ったときだけです。けれど「そういう人がすべてではない」と言い聞かせることに疲れるときもあります。

お酒から詩のインスピレーションを得ることはありますか?(実際に飲んだときでもいいですし、お酒にまつわる話を聞いたときや想像でもなんでも構わないですが)

お酒を飲むと、視界がぼやけて何を見ても「詩」のような、感傷的な気分になってしまいます。気持ちよくスルスルと書けますが、残念ながらロクなものにはなりません(「インスピレーション」自体、信じていないせいかも)。
詩人を「酒とドラック」に結びつけるのは、未だビートニクの影響が色濃いのかな。いまの若い詩人でお酒を飲みながら書く人っているんでしょうか。わざわざ酔ったり、トリップしたりしなくても、日常で十分スリリングです。

ホラー映画から音楽まで、たくさんの「サブカル」を扱う雑誌に文月さんのインタビューが載っていましたが、詩や音楽のような芸術が「サブカル」という言葉で表現されるのは、どう思いますか?

「TRASH-UP!!」を読んでくださったのかな。〈サブカル〉って、確固たる定義がないところがいいと思うんです。例えば、芸術の一ジャンルだと、他人の作品に関して「この作品は詩なのか?(詩ではない)」と、定義を持ち出す方が必ずいて、10代の頃は正直うっとうしいって思っていました(今は「まあそんなもんだ」って感じです)。
渋谷のヴィレッジヴァンガードで自分の詩集を見つけたときに、すごく嬉しかったのを覚えています。「仲間に入れてもらえた」感じがして。変な圧力も感じなくて、心地よかった。私にとっての〈アイドル〉もそんな感じでした(ミスiDエントリー当時は、定義についてあれこれ悩んでしまったけど)。
だから、ジャンルの定義や範囲はゆるくてもいいと思うんですよ。作品や作家さん自身に、消費されない「芯」があれば。一発屋でも構わない、っていう覚悟があれば。

モノをつくるときに空しさを感じますか?わたしは完成したときに空しくなります。

「つくる」って、空しさの連続なのだと思います。思い描くものに追いつけないときとか、自分の手を離れていってしまうとき、身を削られている感じがします。私はつくっていく過程が好きなので、自作の完成品に思い入れは薄いです。でも、読者や編集者に感想をもらったときは、その人の思いを自分の勢いに変えて、もっと広がりたいって思います。読んでもらったのが新作なら尚更うれしい。あと、他人の書いた素晴らしい作品に出会ったとき。そういうときは胸いっぱいになりますよ。

男って何なんですかね。

ねえ…何なんですかね。言葉自体が通じませんね。。でも最近思うのは、同性に対しても「同じ女だから大丈夫」と安心してはいけないということ。同性と打ち解けたあとに「こいつ私と違う生きものだった…」って気づく方が恐ろしくないですか?相手が男なら単に「男って!男って…!」で済むから楽チンだなあ、と。兎角、他人と付き合っていくのは難しい。

『ユリイカ』の村上春樹特集に掲載されたエッセイ風の論考、「不完全な世界に住む不完全なひと」を以前に読んだのですが、そこでは村上作品、とりわけ『ノルウェイの森』に対する複雑な思い(魅了されると同時に批判的にも思う)が語られていたと記憶しています。その「春樹コンプレックス」――という表現は強すぎるかもしれませんが――に対して、私は非常に共感してしまったのですが、今現在の文月さんは、最近の村上春樹(の作品)をどう思っておられるでしょうか?

拙稿の内容が思い出せなくて、読み返しました。読んでくださった方に言うのは申し訳ないですが、ほんとに自分の文章が下手でびっくりしました。。当時の自分(19歳)なりに論考めいたものを書こうとしたのだと思います。
現在は、村上春樹の作品に「コンプレックス」というほどの思い入れは無いです。でも「適切な世界の適切ならざる私」という詩を書かせた一因が、『ノルウェイの森』にあることは確かなので、一生切り離せない「何か」も感じています(10代の頃は、たまたま読んだものから影響を受けることは数多くありました)。春樹作品の中で、男女がどのように書き分けられているか、ということは興味があります。けれど、情けないことに『1Q84』以降の作品は殆ど追えていないので、「最近」の村上春樹については語れません。
あ、『村上春樹への12のオマージュ いまのあなたへ』(NHK出版)という、若手(~中堅)作家の短編競作アンソロジー、とても好きな1冊でした。内容は村上春樹とはあまり関係ないけど、おすすめです。

北海道と東京以外で好きな街は?

長野は住みたいと思うほど好きでした。空気がきれいで、山の木々が生き生きしていて。行ったのは随分前ですが、福井もよいところでした。人も町ものんびりした雰囲気で、寿司屋のお兄さんが気さくだったのを覚えています。どちらも街ではないかも。

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