ここは質問に答える場所ではない。
そういうことなら、カッコイイ救助隊ということにして、人殺しのための装備や訓練はなくしましょう。
世界が滅びようとも正義はなされるべしという理屈についてはまあそうだなあと思いますが、死刑が正義かどうかの話は別です。
言葉の定義的にありえないのでは。
嫌悪するかしないかはあなたの嗜好の問題にすぎないので「理屈として間違っているから批判はする」で問題ないと思います。日本人の多くは公的な政治的立場と私的な道徳的立場が一致していなければ気が済まないという謎なイデオロギーを持っています。政治的な未熟さのあらわれだと思います。
もう2016年なので「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」は嘲笑っていい宗教なのではないでしょうか。
パスタはふつうに1.6mmぐらいが一番好きかな・・・・・・。
はい。「民主主義の流儀」というところが大切で、この文脈でいう「正義」は、相対的正義のことです。もっとも、相対的正義とはあらゆる人間に正義がある、という話ではなく、正義とは経験的な蓄積により更新されていくものである、ということです。だから、人々の経験によって少しずつ積み上げられ正義の原理となっていった人権のような概念は尊重されなければいけない。ところで、経験的な蓄積を正義へと結びつけるのは経験から学び次の行動を更新しようとする意欲なくしては不可能です。ソクラテスを引くまでもなく、この「知を愛する」意欲こそが叡智に他なりません。繰り返しますが、議会制民主主義は相対的正義を前提とします。しかし、いかに正義が相対的なものであったとしても、いや、相対的なものであればなおさら、「知を愛する」意欲を絶対的なモラルとしなければ、議会制民主主義はファシズムを育む最悪の制度となります。ある法哲学者は、民主主義とはホトトギス(ファシズム)の卵を知らずに育てるウグイスのようなものだと言いました。しかし彼は、そうであっても民主主義を支持するべきであると言いました。ではファシズムの発生をどう抑えればいいのか?かの法哲学者は市民ひとりひとりの叡智に期待するのです。逆に言えば、構成員それぞれが正義を目指して意欲することによってしか民主主義は保ちえない、ということになります。
彼らの行為そのものが閉鎖的な村社会の人々だということを表している気がしますね。
いろいろありますが、一つには日本社会の「無責任の体系(丸山真男)」が戦前戦後を通じて天皇制を通して構造化されていることがあげられるでしょう。