客観的に見て顔は下の上、胸はあるけど全体的に肉がついてるので体型も残念...なうえに我ながら性格まで残念です。変わることを諦めているわけではないですが、なかなかより良い自分にはほど遠いですし自信がもてません。他人に認められる以外に、自分を肯定できるようになるにはどうしたら良いでしょうか?26歳 女
ご質問誠に有難う御座います。
さて、今回のご質問文の中でも書かれておりますが、「他人から認められる」ということは自信を持つ方法の一つであることは間違い御座いません。
誰かに承認さえしてもらえれば、誰だって「自分は生きていて良いんだ」というような気持ちになることが出来るでしょう。
非常に簡単に自信を持つ手段、それが承認で御座います。
ところで「承認」を「非常に簡単」とお伝えさせて頂きましたが、「人に承認されるのは非常に難しい」という風に感じられた方も多いことでしょう。
人から承認してもらえるのは偉大な成果を出した人間だけだ、と感じられたかもしれません。
確かに、実社会で人から承認を集めることは簡単なことでは御座いません。
そのことは私も存じております。
ですが、それでもなお、承認は非常に簡単な手段だとお伝えさせて頂きます。
それは何故か。
それは「相手に依存しているから」で御座います。
極端な話をすれば、貴方様に全く魅力が無くとも、相手側が上手に承認をすれば、貴方様は自分に自信を持つことが可能で御座います。
素行の悪い生徒に対して、教師が強引に良いところを見つけて褒める、というような手段がこれに該当するでしょう。
逆に、貴方様がどれほど魅力的であっても、相手側がその気になれば、全く承認しないことも可能で御座います。
つまり、「人からの承認によって自信を持つ」というのは「相手の匙加減で自信を持てるか持てないか決まる」ということになります。
これを利用すれば、「承認」を与えることで「お金」を貰うことが可能で御座います。
「ホスト」「キャバクラ」「宗教家」「占い師」などの基本原則といえましょう。
一応補足を致しますが、私はこれらの職業を否定するつもりは全く御座いません。
例えお金を払ってでも「承認」を欲している方というのは、いつの時代も必ずおりますし、これらの職業にはそういった方を救ったという実績も間違いなく御座います。
単純に「承認は金で買え、承認を売って生活をしている人がいる」という事実をお伝えしたかっただけで御座います。
さて、「承認は金で買える」ということをお話しさせて頂きましたが、貴方様が欲する「承認」がこのような「金で買えてしまうような偽物の承認」で無いことも重々承知しております。
多くの方が望む承認は二つ。
一つ目は成果に対する承認
美人であるとか、仕事が出来るとかそういった類のものになります。
しかし、成果に対する承認は「一度」貰うだけならそこまで難しくありませんが、これを維持することは非常に難しいと言わざるを得ません。
何故なら、貴方様の成果に「飽きる」からで御座います。
例え素晴らしい成果であっても、前回と同じ成果では、前回以上の承認は得られません。
死ぬまで成長し続けることが貴方様には出来ますでしょうか。
少なくとも私にはできる気が致しません。
なお、この「承認」を努力の糧にすることは素晴らしいことだと思います。
「もっと褒めてほしいから頑張ろう!」これは非常に素晴らしいことですが、そこに自信を求めるのは危険ということで御座います。
次に二つ目は存在に対する承認
要するに「貴方のこと好き!無条件で!」
という承認で御座います。
これを貴方様に与えてくれるのは両親くらいなもので御座います。
もし貴方様の両親が「貴方様の存在に対して承認」して下さっているのであれば、それは感謝をした方が良いことでしょう。
貴方様は、その「承認」に慣れてしまって気が付いていないかもしれませんが、貴方様は承認されております。私の知る限り、これは稀なことです。
さて、今お話しさせて頂いた「二つの承認」で御座いますが、この二つもやはり他人に依存していると言えます。
長々と書かせて頂きましたが、端的にまとめると、これらの「他人に依存したもの」を自信の軸にしてしまうと、どうしても人の行動によって自信が揺らぐ「軸のない生き方」になってしまう可能性が高いということで御座います。
ここでご質問文にもあった「他人に認められる以外の、自分の肯定の仕方」の話をさせて頂きます。
「人に依存しない自信の持ち方」と考えて頂ければ分かりやすいことでしょう。
まず御質問者様は「生きる権利」が自分にあるかどうか、ということについてどのようにお考えでしょうか?
憲法25条の生存権の話をしているのでは御座いません。そんな紙は、簡単に破れます。
「私は生きていても良いんだ!」と、どのように実感できるのかという話で御座います。
さて、よく「私には生きる権利があるのでしょうか?」というようなご質問を頂きますが、そもそも生きる権利とは何でしょうか?
私の結論は「生きる権利」とは「生きる能力」で御座います。
「生きる能力」があるのであれば「生きる権利」があるという考え方で御座います。
このようにお伝えすると必ず「じゃあニートに生きる権利はないのか」「寝たきり老人は殺せというのか」というようなご意見を仰られる方がいらっしゃいますが、彼らにもまた生きる権利が御座います。
例えばニートであれば、親が面倒を見ていることが多いでしょう。それならばそのニートには「親に面倒を見てもらえる」という「生きる能力」が御座います。
御納得頂けないのであれば、赤ん坊はどうでしょうか?
赤ん坊は単独では生きていけません。赤ん坊には「人間に愛される」という能力があるから、赤ん坊は「生きる能力」があるので御座います。
「じゃあ生きる能力がない人間は死ね、というのか」というご意見も頂きそうですが、これもまた違います。
生きる能力がない人間は、すでに死んでいます。
つまり逆に言えば
「今、生きている人間は、すべからず生きる能力を持っている」
ということになります。
それが「運」なのか「技術」なのか「才能」なのかは分かりかねますが、何らかの能力を持っているから生きております。
生きているということは、生きる能力がある。
生きる能力があるということは、生きる権利がある
だから私は生きていて良い
それだけのシンプルな理屈が、私の最大の自信で御座います。
憲法やら人権やらは、生きる能力を確保するための、手段に過ぎません。
私たちの生きる権利は「人類の英知」によって保障されるものでは御座いません。
ただ、今、生きている、そしてこれまで曲がりなりにも生きてきたというその事実によって保障をされているので御座います。
本当に長々とお伝えしてしまい誠に申し訳御座いません。
最後にまとめとさせて頂きます。
人に依存した自信は非常に脆く、人の行動に大きく左右されます。
ですので、人の「承認」は努力の糧にすべきですが、自信の根本にすべきでは御座いません。
自信の根本は「今、生きている」という人に依存しない、非常にシンプルな理屈。
私の自信は基本的にそれだけで御座います
さて、今回のご質問文の中でも書かれておりますが、「他人から認められる」ということは自信を持つ方法の一つであることは間違い御座いません。
誰かに承認さえしてもらえれば、誰だって「自分は生きていて良いんだ」というような気持ちになることが出来るでしょう。
非常に簡単に自信を持つ手段、それが承認で御座います。
ところで「承認」を「非常に簡単」とお伝えさせて頂きましたが、「人に承認されるのは非常に難しい」という風に感じられた方も多いことでしょう。
人から承認してもらえるのは偉大な成果を出した人間だけだ、と感じられたかもしれません。
確かに、実社会で人から承認を集めることは簡単なことでは御座いません。
そのことは私も存じております。
ですが、それでもなお、承認は非常に簡単な手段だとお伝えさせて頂きます。
それは何故か。
それは「相手に依存しているから」で御座います。
極端な話をすれば、貴方様に全く魅力が無くとも、相手側が上手に承認をすれば、貴方様は自分に自信を持つことが可能で御座います。
素行の悪い生徒に対して、教師が強引に良いところを見つけて褒める、というような手段がこれに該当するでしょう。
逆に、貴方様がどれほど魅力的であっても、相手側がその気になれば、全く承認しないことも可能で御座います。
つまり、「人からの承認によって自信を持つ」というのは「相手の匙加減で自信を持てるか持てないか決まる」ということになります。
これを利用すれば、「承認」を与えることで「お金」を貰うことが可能で御座います。
「ホスト」「キャバクラ」「宗教家」「占い師」などの基本原則といえましょう。
一応補足を致しますが、私はこれらの職業を否定するつもりは全く御座いません。
例えお金を払ってでも「承認」を欲している方というのは、いつの時代も必ずおりますし、これらの職業にはそういった方を救ったという実績も間違いなく御座います。
単純に「承認は金で買え、承認を売って生活をしている人がいる」という事実をお伝えしたかっただけで御座います。
さて、「承認は金で買える」ということをお話しさせて頂きましたが、貴方様が欲する「承認」がこのような「金で買えてしまうような偽物の承認」で無いことも重々承知しております。
多くの方が望む承認は二つ。
一つ目は成果に対する承認
美人であるとか、仕事が出来るとかそういった類のものになります。
しかし、成果に対する承認は「一度」貰うだけならそこまで難しくありませんが、これを維持することは非常に難しいと言わざるを得ません。
何故なら、貴方様の成果に「飽きる」からで御座います。
例え素晴らしい成果であっても、前回と同じ成果では、前回以上の承認は得られません。
死ぬまで成長し続けることが貴方様には出来ますでしょうか。
少なくとも私にはできる気が致しません。
なお、この「承認」を努力の糧にすることは素晴らしいことだと思います。
「もっと褒めてほしいから頑張ろう!」これは非常に素晴らしいことですが、そこに自信を求めるのは危険ということで御座います。
次に二つ目は存在に対する承認
要するに「貴方のこと好き!無条件で!」
という承認で御座います。
これを貴方様に与えてくれるのは両親くらいなもので御座います。
もし貴方様の両親が「貴方様の存在に対して承認」して下さっているのであれば、それは感謝をした方が良いことでしょう。
貴方様は、その「承認」に慣れてしまって気が付いていないかもしれませんが、貴方様は承認されております。私の知る限り、これは稀なことです。
さて、今お話しさせて頂いた「二つの承認」で御座いますが、この二つもやはり他人に依存していると言えます。
長々と書かせて頂きましたが、端的にまとめると、これらの「他人に依存したもの」を自信の軸にしてしまうと、どうしても人の行動によって自信が揺らぐ「軸のない生き方」になってしまう可能性が高いということで御座います。
ここでご質問文にもあった「他人に認められる以外の、自分の肯定の仕方」の話をさせて頂きます。
「人に依存しない自信の持ち方」と考えて頂ければ分かりやすいことでしょう。
まず御質問者様は「生きる権利」が自分にあるかどうか、ということについてどのようにお考えでしょうか?
憲法25条の生存権の話をしているのでは御座いません。そんな紙は、簡単に破れます。
「私は生きていても良いんだ!」と、どのように実感できるのかという話で御座います。
さて、よく「私には生きる権利があるのでしょうか?」というようなご質問を頂きますが、そもそも生きる権利とは何でしょうか?
私の結論は「生きる権利」とは「生きる能力」で御座います。
「生きる能力」があるのであれば「生きる権利」があるという考え方で御座います。
このようにお伝えすると必ず「じゃあニートに生きる権利はないのか」「寝たきり老人は殺せというのか」というようなご意見を仰られる方がいらっしゃいますが、彼らにもまた生きる権利が御座います。
例えばニートであれば、親が面倒を見ていることが多いでしょう。それならばそのニートには「親に面倒を見てもらえる」という「生きる能力」が御座います。
御納得頂けないのであれば、赤ん坊はどうでしょうか?
赤ん坊は単独では生きていけません。赤ん坊には「人間に愛される」という能力があるから、赤ん坊は「生きる能力」があるので御座います。
「じゃあ生きる能力がない人間は死ね、というのか」というご意見も頂きそうですが、これもまた違います。
生きる能力がない人間は、すでに死んでいます。
つまり逆に言えば
「今、生きている人間は、すべからず生きる能力を持っている」
ということになります。
それが「運」なのか「技術」なのか「才能」なのかは分かりかねますが、何らかの能力を持っているから生きております。
生きているということは、生きる能力がある。
生きる能力があるということは、生きる権利がある
だから私は生きていて良い
それだけのシンプルな理屈が、私の最大の自信で御座います。
憲法やら人権やらは、生きる能力を確保するための、手段に過ぎません。
私たちの生きる権利は「人類の英知」によって保障されるものでは御座いません。
ただ、今、生きている、そしてこれまで曲がりなりにも生きてきたというその事実によって保障をされているので御座います。
本当に長々とお伝えしてしまい誠に申し訳御座いません。
最後にまとめとさせて頂きます。
人に依存した自信は非常に脆く、人の行動に大きく左右されます。
ですので、人の「承認」は努力の糧にすべきですが、自信の根本にすべきでは御座いません。
自信の根本は「今、生きている」という人に依存しない、非常にシンプルな理屈。
私の自信は基本的にそれだけで御座います
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