神が存在しないと主張するためには、存在しないことが考えられないものなど存在しない、つまりあらゆるものは存在しないことも考えられるものだということになります。もしできるようなら、証明してみてください。
この質問では、「神とは存在しないことが考えられないものである」ということが前提とされているように思われます。この前提の意味や真偽も問うことができるでしょうが、これをさておいても、次に示唆されている「あらゆるものは存在しないことも考えられる」ということはないという主張に異議を唱えることができると思います。
あるものxについて、それが存在しないことが考えられるというのはどういうことか。僕なら、これは「xは存在しない」という形の文が意味を成し、さらに、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき真である可能性があるということである、と考えてみます。ここで「真である可能性がある」というのは、文のみを検討することでそれが偽であるとは決定できないというようなことです。
こう考えると、「xは存在しない」の「x」に名詞句を代入してできる文は、それが意味を成すものであれば、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき、すべて、今いった意味で真である可能性があるといえると思います。
少なくとも、「xは存在する」の「x」に代入されたとき意味を成す文をつくるような名詞句は、この単純否定である「xは存在しない」の「x」に代入されても意味を成す文をつくるといえるでしょう。「pである」が意味を成す文ならば「pでない」も意味を成す文である、ということがいえるだろうからです。
つまり、ここでxに代入されうるような名詞句が指示していると考えられるもの、つまり、それが存在するという可能性を意味を成すように(intelligibly)考えうるようなものはすべて、またそれが存在しないということも意味を成すように考えうる、ということです。
先に書いた「瑣末あるいは論点先取的な場合」とは、「x」に代入される名詞句としてたとえば「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなもの」が考えようとする場合です。この場合にできる文「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」は(これが意味を成すものと見做すなら)真である可能性がない(必ず偽である)ように思われます。
しかしこれは、たとえば「3で割り切ることが不可能であるような数は3で割り切れる」というような文に真である可能性がないのと同じで、文の構成要素間の瑣末な論理的撞着によるもので、存在についてなんら実質的な見識をもたらすものではありません。
そうでなければ「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」という文が偽であるのは、存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは実際には存在する(そしてなんらかの仕方でこのことを明らかにすることができる)からだ、とでもいわなければいけないでしょう。ところが、このように考えるのは論点先取になってしまいます(存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものが存在するかしないかという問題に答えるために、そういうものが存在するということを前提としてしまっている)。
よって、存在する、あるいは存在する可能性があるものならばなんでも、それが存在しないことも考えることができるという結論になります。この結論を受け入れることは、しかし、神が存在しないと主張することではありません。僕ならば、この論証が示すのは、神は、とにかく普通の意味では、それに「存在する/しない」という述定をして意味を成す文をつくり、その真偽を問えるような類の「もの」ではないということである、と言うでしょう。
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あるものxについて、それが存在しないことが考えられるというのはどういうことか。僕なら、これは「xは存在しない」という形の文が意味を成し、さらに、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき真である可能性があるということである、と考えてみます。ここで「真である可能性がある」というのは、文のみを検討することでそれが偽であるとは決定できないというようなことです。
こう考えると、「xは存在しない」の「x」に名詞句を代入してできる文は、それが意味を成すものであれば、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき、すべて、今いった意味で真である可能性があるといえると思います。
少なくとも、「xは存在する」の「x」に代入されたとき意味を成す文をつくるような名詞句は、この単純否定である「xは存在しない」の「x」に代入されても意味を成す文をつくるといえるでしょう。「pである」が意味を成す文ならば「pでない」も意味を成す文である、ということがいえるだろうからです。
つまり、ここでxに代入されうるような名詞句が指示していると考えられるもの、つまり、それが存在するという可能性を意味を成すように(intelligibly)考えうるようなものはすべて、またそれが存在しないということも意味を成すように考えうる、ということです。
先に書いた「瑣末あるいは論点先取的な場合」とは、「x」に代入される名詞句としてたとえば「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなもの」が考えようとする場合です。この場合にできる文「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」は(これが意味を成すものと見做すなら)真である可能性がない(必ず偽である)ように思われます。
しかしこれは、たとえば「3で割り切ることが不可能であるような数は3で割り切れる」というような文に真である可能性がないのと同じで、文の構成要素間の瑣末な論理的撞着によるもので、存在についてなんら実質的な見識をもたらすものではありません。
そうでなければ「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」という文が偽であるのは、存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは実際には存在する(そしてなんらかの仕方でこのことを明らかにすることができる)からだ、とでもいわなければいけないでしょう。ところが、このように考えるのは論点先取になってしまいます(存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものが存在するかしないかという問題に答えるために、そういうものが存在するということを前提としてしまっている)。
よって、存在する、あるいは存在する可能性があるものならばなんでも、それが存在しないことも考えることができるという結論になります。この結論を受け入れることは、しかし、神が存在しないと主張することではありません。僕ならば、この論証が示すのは、神は、とにかく普通の意味では、それに「存在する/しない」という述定をして意味を成す文をつくり、その真偽を問えるような類の「もの」ではないということである、と言うでしょう。
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