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Yuuki Ohta

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神が存在しないと主張するためには、存在しないことが考えられないものなど存在しない、つまりあらゆるものは存在しないことも考えられるものだということになります。もしできるようなら、証明してみてください。

この質問では、「神とは存在しないことが考えられないものである」ということが前提とされているように思われます。この前提の意味や真偽も問うことができるでしょうが、これをさておいても、次に示唆されている「あらゆるものは存在しないことも考えられる」ということはないという主張に異議を唱えることができると思います。
あるものxについて、それが存在しないことが考えられるというのはどういうことか。僕なら、これは「xは存在しない」という形の文が意味を成し、さらに、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき真である可能性があるということである、と考えてみます。ここで「真である可能性がある」というのは、文のみを検討することでそれが偽であるとは決定できないというようなことです。
こう考えると、「xは存在しない」の「x」に名詞句を代入してできる文は、それが意味を成すものであれば、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき、すべて、今いった意味で真である可能性があるといえると思います。
少なくとも、「xは存在する」の「x」に代入されたとき意味を成す文をつくるような名詞句は、この単純否定である「xは存在しない」の「x」に代入されても意味を成す文をつくるといえるでしょう。「pである」が意味を成す文ならば「pでない」も意味を成す文である、ということがいえるだろうからです。
つまり、ここでxに代入されうるような名詞句が指示していると考えられるもの、つまり、それが存在するという可能性を意味を成すように(intelligibly)考えうるようなものはすべて、またそれが存在しないということも意味を成すように考えうる、ということです。
先に書いた「瑣末あるいは論点先取的な場合」とは、「x」に代入される名詞句としてたとえば「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなもの」が考えようとする場合です。この場合にできる文「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」は(これが意味を成すものと見做すなら)真である可能性がない(必ず偽である)ように思われます。
しかしこれは、たとえば「3で割り切ることが不可能であるような数は3で割り切れる」というような文に真である可能性がないのと同じで、文の構成要素間の瑣末な論理的撞着によるもので、存在についてなんら実質的な見識をもたらすものではありません。
そうでなければ「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」という文が偽であるのは、存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは実際には存在する(そしてなんらかの仕方でこのことを明らかにすることができる)からだ、とでもいわなければいけないでしょう。ところが、このように考えるのは論点先取になってしまいます(存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものが存在するかしないかという問題に答えるために、そういうものが存在するということを前提としてしまっている)。
よって、存在する、あるいは存在する可能性があるものならばなんでも、それが存在しないことも考えることができるという結論になります。この結論を受け入れることは、しかし、神が存在しないと主張することではありません。僕ならば、この論証が示すのは、神は、とにかく普通の意味では、それに「存在する/しない」という述定をして意味を成す文をつくり、その真偽を問えるような類の「もの」ではないということである、と言うでしょう。
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神学上の神は必然的に存在するものだそうです。存在しないということが考えられない存在です。つまり、神とは存在そのもののことなんでしょうか。この問いはハイデガーの思想と何か関係しますか?

「つまり」というところでかなりの論証をしなければいけないでしょうが、必然性のような形而上学的概念からはじめて神についてなにか結論するという筋自体はめずらしいものではありません。
ただ、このような論証の結論をどのように表現するかは非常に難しい問題です。たとえば、「神とは存在そのもののことである」というと、「存在そのもの」というなにかがあって、「神」と呼ばれているものはそれと同一である、という主張のように読めますが、これはどちらかというとプラトン(派)的な考え方でしょう。
アクィナスのようにアリストテレス的な考え方をするならば、神とは、そもそもなんであれなにか物事と同一であると言われうるようなものではありませんし、また個別の存在するものと別に「存在そのもの」があるという言い方もしません。なので、有名な、神とは「自存する存在そのもの(ipsum esse subsistens)」であるという言い方は、前段落のようには理解できないのです。
ハイデガーはこうした存在や神や必然性に深い哲学的関心を向けましたし、その思索はさまざまなかたちでプラトン、アリストテレス、アクィナスをはじめとする多くの哲学者の影響を受けています。特定の影響をあげるのは容易ではないでしょうが、いろいろ重要な関連は見いだせると思います。
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Related users

私の直観によれば、人間存在の究極的目的は真・善・美を実現することです。ところで、真・善・美って何ですか?特に「真」がわかりません。よろしくお願いいたします。

なんだかわからないのにこれらが人間存在の究極目的だとどうして直観できるのかという疑問はおいておくとして、真、善、美がなんであるか、いろいろな人がいろいろに考えていて、誰もが納得する考え方はありません。僕の考えは基本的には単純で、たとえば人がこうだと言明したり判断したりするとき、それが実際にそのようであれば、その言明や判断の内容を真である、ととりあえずは言いたいと思います。
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最近Twitterなどで見かける「マウンティング」についてどう思いますか?

僕も「マウンティング」という言葉がTwitterなどで使われているのを見る頻度が近ごろ高まったという印象はあるのですが、いまいちどういう意味・ニュアンスで使われているのか把握できていないところがあり、どう思うかといわれてもなんとも言えません。
おそらく同時期に膾炙した表現として、英語では「manspreading」とか「mansplaining」とかいうものがありますが、特定のグループに属する人の一部の、礼を欠き尊大で思い上がった行為や態度を批判的に指す表現という意味では共通点があるかなと思います。
日本には欧米ほどは足を広げて電車の席を必要以上に占領する男性は多くないと思うので、「manspreading」の訳語が広まらないのは理解できます。「mansplaining」はマウンティングの一種といえると思いますが、「mansplaining」に対して「マウンティング」は特に男性を男性としてやり玉にあげる表現ではありませんね。日本語文化と英語文化とでフェミニスト的感覚の受容が異なることを示唆していると思います。
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人間には「嫉妬」の感情は必要なものだと思いますか? 嫉妬することは悪いことですか?

嫉妬をどのように規定すべきかがすでに難しい問題なので、それが必要かどうかいうのも難しい問題です。
相当大ざっぱですが、「嫉妬」を「自分が求めているなにか良い物事が他人に起こっている、またはそれが他人の手中にあること*それ自体*が自分にとって害悪であるという認識によって引き起こされる、悲しみや怒りなどのネガティヴな感情」くらいに理解するとしましょう。伝統的な見方の一つによれば、このような感情の根本には、なにか良い物事を求め、手に入れようとする気持ちがあります。この見方では、嫉妬は愛が過剰に強まってなんらかの形で暴走した結果起こるものなのです。
だとすると、嫉妬の感情そのものは、良く生きるためには必要でない、できれば持たないほうがよいもので、嫉妬することは、それが、つい今「暴走」と呼んだ、なんらかの異常な状態(事実誤認やなにか他の悪い気持ち)に起因する限り、悪いことだといえると思います。しかし、重要なのは、嫉妬を感じてしまうしまう可能性は、良いことを求める気持ち、愛がある限り、完全に消すことはできないということでしょう。なので、愛が良く生きるために必要だとしたら、嫉妬の危険があることも必要であるといわなければならないかもしれません。
嫉妬に関しては、それが恨みや羨みや熱狂などとどう関係してどう異なるのかや、ある物事が本当に良い物事ならば、それが他人に起こったり他人の手中にあること*それ自体*は自分にとって害悪ではありえないという考えが果たしていつも正しいのかなど、難しい問題がいくつもあります。
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価値って客観的に定まるものなのでしょうか。何に価値を感じるかは人の主観ですから、価値は主観的なもののような気がします。でも、人間の主観も構造があるとすれば、その構造がわかれば、価値は客観的に決定できるといえるような気もします。少なくとも、人間社会における価値については。

悪くない筋の考え方だと思います。同じ物事に関して人々が違うように感じることから、その物事の性質や価値は人によって違うという結論は導けません。
正常に動作している温度計と壊れている温度計とで同じものの温度を計れば、それぞれ違う温度が示されるかもしれませんが、この場合は正常に動作している温度計が示す温度の方が正しいわけです。そして、ある温度計が正常に動作しているか壊れているかは、その温度計の構造を検査すれば(その温度計が示す温度が実際に正しいかどうかを知らなくとも)多くの場合わかります。
難しい問題は、人間が持つ価値に反応する力がはたしてこの例の温度計と似たような構造を持っているといえるかどうかです。少し違う言い方をすれば、人間の持つ価値に反応する力もに関しても、温度計と同様に、正常と故障・不具合の区別をつけられるか。これが、価値を「反応依存(response-dependent)」的なものとする人たちが考えなければいけない大きな問題です。
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中学の教科書に、文学は問題を提示するもの、科学は問題を解決するもの、って書いてあったんですが、その流れで行くと、哲学はなにをするものですか?

その流れでいくと、哲学は問題とその解決を理解しようとするもの、じゃないでしょうか。
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哲学と、思想ってなにが違うんでしょうか。

思想はたとえば世界や人間や生や社会のようなテーマに関するなんらかのまとまりをもった考えといえると思いますが、哲学はそういうテーマについて探究する学問のことです。哲学することが思想の産出につながることはしばしばですが、思想を生み出さなければ哲学ではないということはありません。また逆に思想は必ずしも哲学的探究の結果によって生み出されるものではありません。
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世俗的な価値と非世俗的な価値とは何が本質的な差異なのでしょうか。

「世俗的」を「宗教的」に対比するものとしてとらえるなら、宗教的かそうでないかが、また「世俗的」を「世の中の風俗・習慣」というような意味でとらえるなら、そういう意味で世間離れしているかそうでないかが、非世俗的な価値と世俗的な価値との違いになるのではないでしょうか。
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ゆーきさんには、これは失いたくないと思うものや知識や人間関係や肩書きや名誉はありますか。、

小さくても瑣末でも、価値のある知識や人間関係なら失いたくないですし、肩書きや名誉についてすらそう思います。ただ、価値のあるような肩書きや名誉は僕は持っていないですし、また価値のある知識や人間関係も持っているとは自信をもって言えません。人間関係については思い当たる節はありますが、だいたい自分の側からの一方通行の思い込みに過ぎないかもしれません。
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ルソーの一般意志とは何か教えてください。

僕はルソーの思想や政治哲学の専門家ではありませんので詳しい話はより適切なソースを参照していただかなければいけませんが、ルソーのいう「一般意志」とは、あるひとつの社会あるいは共同体をひとつの有機体としてみたとき、その有機体がもつ意志のことのようです。
実際の社会の場合、それを構成する一人一人が意志(関心、理想、計画、欲求など)を持っているわけですが、一般意志はこれらの個別的な意志の単純な和または寄せ集めではありません。
髪の毛や身体が汚れているとか筋肉が疲れているなど、体の部分の大半は入浴から利益をえるという場合でも、たとえば足に外傷があるとか風邪を引いているとかいう理由で、体全体をひとつのまとまりとして考えると入浴は控えた方が良い、というようなことがあると思います。このたとえは今僕が思いついたものなのでどのくらい適切かわかりませんが、とにかく、ルソーによれば、社会の一般意志を尊重することも、その社会を構成している人々の多くが個別的に意志していることを尊重することでは必ずしもないということです。
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なぜ哲学者や思想家は巨大な観念体系を築き上げるのでしょうか。その動機や目的の種類はどのくらいありますか。

なぜ芸術家は芸術をつくるのか、なぜ登山家は山に登るのか、なぜサッカー選手はサッカーをプレーするのか、なぜノートいっぱいに迷路を描く子どもはノートいっぱいに迷路を描くのか、それぞれ様々な動機や目的があると思いますが、哲学者や思想家が巨大な観念体系を築き上げる動機や目的も同じように様々ではないでしょうか。その数はこれくらい、と簡単には言えないと思います。
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人は死後どうなるかわからない。それでも、人は日々死んでいきますよね。ゆーきさんは、ゆーきさんの身近な人が亡くなったり、或いはニュースで人が亡くなるのを見聞きしてどのように感じますか?状況や人によって異なると思いますがどのような感情や思考が生じますか。

人が死ぬことは、基本的に悲しいことですし、つらいことですし、怖いことだと思います。自分の好きな人や、お世話になった人の場合は特にそうです。その人と言葉を交わすことはもうできないですし、その人がなにか生きた人間がするようなことをすることもないわけですので、これらは人間としてごく自然な反応だと思います。より具体的にどのような感情や思考が生じるかは、おっしゃる通り状況や人によって大きく異なります。
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ゆーきさんは、超自然的な存在としての霊魂を存在するとは思わないということですが、では、人は死後どうなると思いますか?死後のことには関心はありませんか?人の死後は、断滅か、輪廻か、霊として存在するか、復活するかなど色々想像できますが、その認識によって、その人の人生は大きく左右されるのではないでしょうか。死後は知り得ないと徹底的に理解するにはどうすれば良いでしょうか。また、死後が知り得ないと理解した人の人生はいかなるものになるのでしょうか。というのも、輪廻や霊魂、あの世を信じれば、人はその為によい行いをしようとする。一方、死後、断滅すると信じれば快楽に耽るような人生を送るのではないでしょうか。

人間でも人間以外でも、ある動物は死んだらそれ以上は存在しない、というのが僕の今の考えです。よって、ある動物が死んだら、その動物はどうなるともならないとも言えないということになります。
一匹の魚が熊に生きたまま食べられたとしましょう。その魚は、死んで消化された後はどうなりますか。その魚を構成していた物質(肉や骨やたんぱく質など)の一部は魚を食べた熊の身体の一部になり、一部は排泄されるが、その魚そのものはどうなるのか、と聞かれたら、その魚はもはや存在しないから、それそのものががこれこれこうなるとは言えないと僕は考えます。人間も、基本的には同様であると思います。
よって、ある人が死んだらその人はどうなるというような言明は意味を成さないということになります。しかしこれは「死後のことには関心がない」ということではありません。今述べたように、動物にとって死ぬこととは存在しなくなることと同じであると考えていても、死ぬということは、とても長い間意識を失うことと似たようなこととして想像することはできますし、そうだったら良いのにと思う気持ちも理解できます。
ある動物にとっての死が、その動物の存在の終わりなのか、それともその動物の意識の一時停止に近いものなのか、どう考えるかによって、その動物の生き方が大きく左右されうるというのはその通りだと思います。ただ、死についてこのように考えていればこのように生きるというような単純な相関はないと思います。
このように生きれば死後なにか良いことがあると思えば、多くの人はそのように生きようとするでしょうが、死んだらそれで終わりで自分はそれ以降存在しないと思っている人でも、快楽に耽るような人生を送るとは限りません。逆に、生きているうちにできる限り善いこと、正しいことをしようと思うかもしれません。
死が存在の終わりなのか、なにか別の形の生のはじまりなのか、それは知りえないことだと思うならば、少なくとも死を恐れることはないというのは、少なくともソクラテス以降ある論証です。これが知りえないからむしろ怖いという逆の考えもあります(たとえばハムレットなどがこのような考えを示しているように思われます)。
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美術や音楽またそれに関係するものに執着する人はいると思います。芸術関係の表現者の一流の人々は無執着に芸術を行なっているのでしょうか。芸術とは何であり、どんな目的があり、なぜ人は表現するのですか。

制作や観賞など芸術的、審美的体験は、ある種の快をもたらすものであったり、また多くの人々にとって重大な経験、達成のようなものでもあるので、これに執着する人はもちろんいると思います。
「執着」という言葉でより細かくどのようなことを意味しているかにもよりますが、一流の芸術家や表現者といっても様々な人がいて、執着心の強い人もいれば弱い人もいるでしょうし、その執着の対象もいろいろだと思います。
「芸術とは何であり、どんな目的があり、なぜ人は表現する」のかというのは、問いとして途方もなく巨大なもので、ちょっとやそっとの文章で答えられるとは思えません。
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人が執着する対象の多くはその人の自己(或いは自己イメージ)を防衛したり、強化したりするものではないでしょうか。何らかの観念に執着するのもそこがポイントな気がします。後は執着の対象は好ましいと感じる感覚を与えてくれるものでしょうか。それ以外にあるでしょうか。

自己あるいは自己イメージの防衛、強化といったことは、広い意味で快や力や安定などをもたらすものといえるでしょうから、おっしゃることは以前の回答 https://ask.fm/yuuki_with2us/answers/149530406219 で書いたことに反しないと思います。自己がどういうものであるかという規定には観念のようなものが必要でしょうから、執着の対象としての観念というのもある程度理解できます。
「好ましいと感じる感覚」でどういう感覚を想定していらっしゃるかわかりませんが、これもまた前の回答 https://ask.fm/yuuki_with2us/answers/149631952971 で書いたように、人間関係やある種の経験、名誉、名声、仕事、なんらかの達成などが執着の対象になることは考えられると思います。
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註、間違いや抜けがございましたらご指摘ください。 人間は快を求め、安心を求める。それゆえ、金や物、力に執着する。一方で、金や所有に関心のない人々がいる。彼らの関心の対象は知識である。彼らは自分の持つ知識に執着する。知識の所有を広げることは快でもあり安心にもつながる。金にも物にも力にも知識にも執着しない人々はどのような人でしょうか。ご存知でしたら教えてください。

まず、人が金や物、力に執着するのは、必ずしも快や安心を手に入れる手段としてではないと思います。また、金や所有に関心のない人々が必ず知識に関心をもっているということもいえないでしょう。
知識を蓄えることが快や安心につながることは往々にしてあると思います。
金、物、力、知識に執着しない人でも、執着の対象にはほかにたとえば人間関係やある種の経験、名誉、名声、仕事、なんらかの達成などが考えられ、これらに執着するかもしれません。
ただ、「執着」という言葉を「思い切れないほどになにかに心がひかれること」というような意味でとるなら、まったく何にも執着しない、どこか達観した人というのは一定数いますし、「悟り」ということのひとつの側面は、一切の執着から自由になることという風にも考えられるのではないでしょうか。
「関心」というのは「執着」よりもずっと広い意味の言葉です。まったく何にも関心をもたない人というのは、まったく何にも執着しない人よりも考えにくいと思います。もちろん、心の不健康などが原因で一時的になににも関心がもてないということは多くの人にあることですが、一生を通してまったく何にも微塵の関心をもたないような人ははたして人と呼べるのか少し疑問です。そのような人は、たとえば自分の命を保持することにもまったく関心がないのでしょうか。そうだとしたら、この人は自分から何かを食べようとすることもないでしょう。
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「人生に意味はない」、「存在に根拠はない」という認識が人を無気力にさせたり憂鬱にさせることはあると思いますが、逆に、それらの認識によって、存在が神秘に感じられ、生きる力が湧いてくる感覚を持つ人もいるようです。ここにはどんな違いがあるのでしょう。

これはおもしろい質問ですね。究極的にはこれは単に気質の違いに過ぎず取るに足らないともいえるかも知れませんし、まさにそのような気質の違いこそが根本的で哲学的な違いなのだともいえるかも知れません(そしてここに、この質問で問われているような違いが再び現れています)。
「人生に意味はない」というような言明が真であるとしたら、それはたとえばがっかりする理由であるかもしれません。偽であるとしたら、「人生に意味はない」の否定が真であるということになり、これは喜ぶ理由であるかもしれません。
しかし、では、このような言明が真でも偽でもなく、無意味だったとしたらどうでしょう。この場合、このような言明に対する人の反応は、なにか真であるものや偽であるものへの反応ではないということになり、このような言明を聞いてがっかりする人がいても喜ぶ人がいても、どちらかが正しくどちらが間違っているといえるような問題ではないということになります。すると、無意味なものへの反応は、そこにもとからある意味への反応ではなく、まだ意味の与えられていないものにどのような意味を与えられるかというその人の力の表出である、というようなこともいえるかもしれません。
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私は私の親族が亡くなった時に「彼はどこに行ったのだろう」という思いが自然と生じました。この感覚が多くの人にも共通するものだとすると、普段、我々は自覚的に魂や霊を信じていなくても、我々の心の働きとしては、魂や霊の存在を想定したように働いていると、この時言えるのではないかと思いました。つまり、人は人を単に精緻に出来た機械のようには素朴な心理においては考えていないのが自然なのではないか。一方で、原理的に霊魂の存在の有無はわからないのに、私はどちらか一方に決めたがるようです。ゆーきさんは、霊魂の存在の有無に関してどのような見解を持っていて、また、その見解に納得というか生きる上でおりあいがついていますか

「人は人を単に精緻に出来た機械のようには素朴な心理においては考えていないのが自然」というのはその通りだと思います。しかし、だからといって、「我々の心の働きとしては、魂や霊の存在を想定したように働いている」と結論することはできないかと思います。機械以上のなにものでもないか、超自然的ななにかがあるか、という二者択一ではないだろうからです。
原理的に真偽がわからないことでも、わかっているかのように振る舞わないといけないというような状況は考えられますし、霊魂の存在に関する問題はそういうことのひとつかもしれません。
僕自身は、「霊」「魂」「霊魂」といった言葉で、なにか超自然的な存在を意味するならば、そういうものがある(存在する)とは思いません。他方で、アリストテレスは、魂(プシュケー)とは、ある特定の種の生きている物の形相であるとしました。これがどういう意味かは極めて難しい問題ですが、少なくともアリストテレスにとっては、「魂を持つ」ということは、心臓のようななにかモノを持つということではなく、成長したり、目的をもって動いたり、物事を感じたり考えたりする能力を持って生きているというようなことです。大筋ではこのような考えに僕自身は共感します。
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手段であると同時に目的であるように扱うってどういうことなんでしょう。子どもを作るって行為にこの定式は当てはめられますか。作ろうとする時点では子どもはまだ存在していないわけですけど。

「手段であると同時に目的であるように扱う」ということについては、少し前の質問への回答をご覧ください。→ https://ask.fm/yuuki_with2us/answers/149529385291
ある人の人間性を常に尊敬をもって目的として扱えというような命法が、まだ存在していない人にも適用できるかというのはとても良い問いだと思います。(同様の問いは、まだ存在していない人だけではなく、もはや存在していない人、つまり死者に関してもたてられます。)
結論からいうと、適用できると思います。人間性の定式がそれ自体を目的として扱えと求めるのは、行為の善し悪しが問題になる時その時点で存在している特定の人間が有している(限りでの)人間性ではなく、そのような人間なら誰でも有する(ことのできる)人間性そのものだからです。もちろん、人間性はある特定の人間(もっと厳密に言うと人格)が有するものとしてのみ表現されうるものですが、だからといって人間性の定式が規定している義務は、その時その時に存在する特定の誰かに対する(だけの)義務だということにはなりません。
「公共のトイレは自分の次に使う人が気持ちの良いようにきれいに使いなさい」とか「地震が起きたら、その場にいる一番弱い人をまず助けなさい」とかいうような命令は、「この人」とその時指示できるような特定の誰かではなく、それが誰であれ、ある条件を満たす人に関する命令です。人間性の定式も論理的にはこれらの命令と似たような構造で、この定式が表す義務の対象は、ある時点で存在している特定の誰かの人間性ではなく、ある時点で存在しているかどうかに関わらず、「人間性を有する(ことができる)」という条件をみたすもの一般が、実際にこの条件を存在する場合、その時に有することになる人間性なのです。
よって、このような側面に限っていえば、たとえば、子どもが健康で文化的に育つことができる環境を整えることができないとわかっていながら子どもをつくるということは、誰が食べるかはわからないけれども誰かが食べる食べ物に毒を盛ることと同じように間違っているといえます。こうした行為がそれ自体目的として扱うことに失敗しているのは、行為がなされた時点で存在する特定の人の人間性ではなく、そのような人がその時点で存在するかどうかは関係なく、ある条件を満たす人(「行為者の子どもである人」「この食べ物を食べた人」)の人間性なのです。
ところで、この問いは、実質的には倫理・道徳哲学に属するものでありながら、その理解の鍵となるのはむしろ、指示と記述の区別、量化表現や冠詞など限定詞の意味、また条件文における論理的操作の作用領域など、論理学や言語哲学に属する話題であるというような問いの好例だと思います。
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人はなぜ物や金に執着するのでしょうか。また、なぜ、神とか魂とか霊とかの観念に執着するのでしょうか。なぜ永遠に憧れるのでしょうか。

「執着」という言葉がいつも適切かはわかりませんが、多くの人は、動物的な本能からも、高度に知能的な勘定からも、快や力や安定などを求め、またそういうものが手に入るとそれをいつまでも保持したいと欲するものだと思います。これが物やお金への執着心の一つの源でしょう。
神、魂、霊、そして永遠といったものの概念は、多くの人々の思索や想像を通じて相当に複雑に発展したものですが、ひとつには、魂や霊は身体の死を、また神や永遠はあらゆる有限性を越えるものとして、前段落で書いたのと同じような理由で、多くの人の強い関心の対象であるといえるのではないでしょうか。
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どうして人間は死という概念を持っているのでしょう。動物たちには過去未来の概念がないと聞きました。だから、死の概念も持たない。逆に言えば、人間はどうして時間の概念を持っているのでしょうか。

何をもってある概念を持っているといえるかは簡単な問題ではありませんが、程度の差こそあれ、人間以外の動物でも、過去や未来など時間に関する比較的原始的な概念を持っているといえる種はあると思います。たとえば犬などは決まった時間に食事がないと不満をあらわしたり、もうすぐ散歩に連れて行かれることがわかると(まだ外に出ていなくても)喜んだりします。
また、チンパンジーなどは、不可逆な生命活動の停止を、睡眠や気絶など、外向きの行動に明らかに現れる生命活動の一時停止とは区別して認識することができる、という研究もあるようです。これをもってこういう動物が死の概念を理解しているといえるかどうかはまた別の問題ですが。
われわれ人間が持つ死の概念は非常に複雑ですが、「生物としての生命活動の不可逆な終止」がその中核にあるとはいえると思います。この意味で死んでしまった人とは、話したり、なにかをしてもらったりすることはできません。これだけでも、生と死を区別することの動物にとっての重要性がわかります。人間が死の概念をもつにいたったのも、元は、死がこのような意味で重大な出来事だからではないでしょうか。
時間の概念は死の概念よりさらに抽象的なもので、なぜ人間がこれを持っているかというのもより難しい問題に思われます。一言で僕自身の考えを述べれば、ある動物が時間の概念をもっているのは、その動物が変化を認識できるからです。あるようであったものがそうではないようになる、というようなことの認識の中に、時間的な先後の概念のもとになるものが含まれていると思います。
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他者を手段としてのみならず目的として扱え、ということは手段が同時に目的であるということですか。確かに、個人としてはそう扱われたいと思いますが、カントはどのようにしてこの定式を導き出したのでしょうか。

手段を使うこと(誰かを手段として使うこと)と目的を達成することとは同じである必要はありません。たとえば誰かに何かを教わるという時、手段は誰かになにかをたずねるとか稽古をつけてもらうということですが、目的はなにかを知るとか習得するということです。
いわゆる「人間性の定式」が言うのは、手段として誰かを使う時でもいつでも、その人の人間性をそれ自体目的としてもまた扱うようにせよ、というようなことです。ある人の「人間性をそれ自体目的として扱う」ということがどういうことかは難しい問題ですが、これは、大ざっぱにいえば、その人の人間性を、なにか他の目的を達成する手段としてのみ価値があるものではなくて、それ自身のために他のことが行われるような目的として尊敬をもって扱うというようなことです。
カントがいかにしてこの定式を導き出したかというのも非常に難しい問題です。再び大ざっぱにいえば次のような感じだと思います。人間を人間たらしめている力を行使して行為すること、つまり人間性を表現するように行為することは、なにかを目的として意志して手段を選び行為するということである。なにかを目的として意志して手段を選び行為することが不可能であるならば、つまり人間性が表現されえないものならば、なにかが目的として価値をもつこともないし、なにかがそれを達成するための手段として価値をもつこともない。逆にいえば、目的としてにせよ手段としてにせよ、なにかに価値が認められているならば、人間性の表現がその条件として認められていなければならない。よって、人間性の表現は、なにかを目的として意志して手段を選び行為することを本性とするような存在者、つまり人間にとっては、棄却することのできない究極的な目的なのであり、ほかのあらゆる価値とは別次元の価値を持ち、尊敬の対象となるものなのである。よって、何をするにしても、人間として行為する限り、人間性の表現の損なうように行為してはならない。…相当に大ざっぱに書きましたが、まったく間違っているということはないと思います。
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まず、死後の世界はあるかないか、或いはそれは知り得ないことなのか、お聞きします。次に先ほどの質問への回答の理由をお聞きします。次に、人はなぜ死後の世界を知りたがるのか、お聞きします。

「死後の世界」という表現で何を意味しているかを考えなくてはいけません。たとえば、サントリーニ島とか地中とか太陽系の外のどこか地球に似た星とか、そういう場所のことならば、それが実際にあるかどうか調べることは可能ですが、これらを「死後の」世界と呼ぶ理由はないと思います。
「死後の世界」という表現で、生きている限りは決して行くことはできず、その存在を知ることすらもできないような世界(のようなところ)を想像している人もいるでしょう。この場合は、死後の世界はあるかないかは生きている限りわからないということになります。「死後の世界」という表現をそのような意味で使っているわけですから。
先ほど(この質問の一つ前)の質問への回答の理由は、その回答文の中で説明しましたので、そちらをご覧ください。
最後に、人はなぜ死後の世界について知りたがるのかといえば、人間は、自分がまだ知らないことについては知りたがり、わからないことはわかりたいと思うような種類の生物だからではないでしょうか。それが「死後の世界」のように、いつかは死ぬ存在、またそのような存在と共に生きているような存在なら誰もに関わりのあるようなものならば、なおさらでしょう。
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