@yuuki_with2us

Yuuki Ohta

何事にも終わりはあるものだと思いますか? もしあるのなら、哲学にも終わりはありますか?

何をもってある物事が「終わった」というのかによって答えは変わると思います。たとえば学校に戻ったら遠足は終わりかそれとも家に帰るまでが遠足かとか、教師と生徒の教育的関係は生徒がその教育課程を修了してその教師のもとから離れたら終わりかとか、結婚しているカップルの一人が死んでしまったら二人の関係も終わりかとか、罪の償いはいつ終わるのかとか、色々なことについて色々な考え方があるでしょう。
『けいおん!!』の挿入歌「天使にふれたよ!」には「卒業は終わりじゃない/これからも仲間だから」という一節があります。これは一つには、桜高校軽音部の部員としての活動は終わっても、放課後ティータイムとしての絆や友情は続くというような意味でとれます。またヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には「また、死においても世界は変化せず、しかし終わりに至るのである」という命題があります(6.431)。これはどういう意味かよくわかりませんが、とにかくこのような例をみると、何かが「終わる」とはどういうことかと問うのと同時に、終わる終わらないと言われている対象はそもそも何なのかということも問わなければならないと思われます。
よって、哲学に終わりがあるかどうか考えるためには、哲学とは何かということを考えなくてはならず、しかしこれについては本当に色々な考え方があるので、どんな意味でも一概に終わる終わらないとは言い難いと思います。

Latest answers from Yuuki Ohta

神が存在しないと主張するためには、存在しないことが考えられないものなど存在しない、つまりあらゆるものは存在しないことも考えられるものだということになります。もしできるようなら、証明してみてください。

この質問では、「神とは存在しないことが考えられないものである」ということが前提とされているように思われます。この前提の意味や真偽も問うことができるでしょうが、これをさておいても、次に示唆されている「あらゆるものは存在しないことも考えられる」ということはないという主張に異議を唱えることができると思います。
あるものxについて、それが存在しないことが考えられるというのはどういうことか。僕なら、これは「xは存在しない」という形の文が意味を成し、さらに、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき真である可能性があるということである、と考えてみます。ここで「真である可能性がある」というのは、文のみを検討することでそれが偽であるとは決定できないというようなことです。
こう考えると、「xは存在しない」の「x」に名詞句を代入してできる文は、それが意味を成すものであれば、瑣末あるいは論点先取的な場合をのぞき、すべて、今いった意味で真である可能性があるといえると思います。
少なくとも、「xは存在する」の「x」に代入されたとき意味を成す文をつくるような名詞句は、この単純否定である「xは存在しない」の「x」に代入されても意味を成す文をつくるといえるでしょう。「pである」が意味を成す文ならば「pでない」も意味を成す文である、ということがいえるだろうからです。
つまり、ここでxに代入されうるような名詞句が指示していると考えられるもの、つまり、それが存在するという可能性を意味を成すように(intelligibly)考えうるようなものはすべて、またそれが存在しないということも意味を成すように考えうる、ということです。
先に書いた「瑣末あるいは論点先取的な場合」とは、「x」に代入される名詞句としてたとえば「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなもの」が考えようとする場合です。この場合にできる文「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」は(これが意味を成すものと見做すなら)真である可能性がない(必ず偽である)ように思われます。
しかしこれは、たとえば「3で割り切ることが不可能であるような数は3で割り切れる」というような文に真である可能性がないのと同じで、文の構成要素間の瑣末な論理的撞着によるもので、存在についてなんら実質的な見識をもたらすものではありません。
そうでなければ「存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは存在しない」という文が偽であるのは、存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものは実際には存在する(そしてなんらかの仕方でこのことを明らかにすることができる)からだ、とでもいわなければいけないでしょう。ところが、このように考えるのは論点先取になってしまいます(存在しないという述定をそれにすることは不可能であるようなものが存在するかしないかという問題に答えるために、そういうものが存在するということを前提としてしまっている)。
よって、存在する、あるいは存在する可能性があるものならばなんでも、それが存在しないことも考えることができるという結論になります。この結論を受け入れることは、しかし、神が存在しないと主張することではありません。僕ならば、この論証が示すのは、神は、とにかく普通の意味では、それに「存在する/しない」という述定をして意味を成す文をつくり、その真偽を問えるような類の「もの」ではないということである、と言うでしょう。
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神学上の神は必然的に存在するものだそうです。存在しないということが考えられない存在です。つまり、神とは存在そのもののことなんでしょうか。この問いはハイデガーの思想と何か関係しますか?

「つまり」というところでかなりの論証をしなければいけないでしょうが、必然性のような形而上学的概念からはじめて神についてなにか結論するという筋自体はめずらしいものではありません。
ただ、このような論証の結論をどのように表現するかは非常に難しい問題です。たとえば、「神とは存在そのもののことである」というと、「存在そのもの」というなにかがあって、「神」と呼ばれているものはそれと同一である、という主張のように読めますが、これはどちらかというとプラトン(派)的な考え方でしょう。
アクィナスのようにアリストテレス的な考え方をするならば、神とは、そもそもなんであれなにか物事と同一であると言われうるようなものではありませんし、また個別の存在するものと別に「存在そのもの」があるという言い方もしません。なので、有名な、神とは「自存する存在そのもの(ipsum esse subsistens)」であるという言い方は、前段落のようには理解できないのです。
ハイデガーはこうした存在や神や必然性に深い哲学的関心を向けましたし、その思索はさまざまなかたちでプラトン、アリストテレス、アクィナスをはじめとする多くの哲学者の影響を受けています。特定の影響をあげるのは容易ではないでしょうが、いろいろ重要な関連は見いだせると思います。
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私の直観によれば、人間存在の究極的目的は真・善・美を実現することです。ところで、真・善・美って何ですか?特に「真」がわかりません。よろしくお願いいたします。

なんだかわからないのにこれらが人間存在の究極目的だとどうして直観できるのかという疑問はおいておくとして、真、善、美がなんであるか、いろいろな人がいろいろに考えていて、誰もが納得する考え方はありません。僕の考えは基本的には単純で、たとえば人がこうだと言明したり判断したりするとき、それが実際にそのようであれば、その言明や判断の内容を真である、ととりあえずは言いたいと思います。
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最近Twitterなどで見かける「マウンティング」についてどう思いますか?

僕も「マウンティング」という言葉がTwitterなどで使われているのを見る頻度が近ごろ高まったという印象はあるのですが、いまいちどういう意味・ニュアンスで使われているのか把握できていないところがあり、どう思うかといわれてもなんとも言えません。
おそらく同時期に膾炙した表現として、英語では「manspreading」とか「mansplaining」とかいうものがありますが、特定のグループに属する人の一部の、礼を欠き尊大で思い上がった行為や態度を批判的に指す表現という意味では共通点があるかなと思います。
日本には欧米ほどは足を広げて電車の席を必要以上に占領する男性は多くないと思うので、「manspreading」の訳語が広まらないのは理解できます。「mansplaining」はマウンティングの一種といえると思いますが、「mansplaining」に対して「マウンティング」は特に男性を男性としてやり玉にあげる表現ではありませんね。日本語文化と英語文化とでフェミニスト的感覚の受容が異なることを示唆していると思います。
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人間には「嫉妬」の感情は必要なものだと思いますか? 嫉妬することは悪いことですか?

嫉妬をどのように規定すべきかがすでに難しい問題なので、それが必要かどうかいうのも難しい問題です。
相当大ざっぱですが、「嫉妬」を「自分が求めているなにか良い物事が他人に起こっている、またはそれが他人の手中にあること*それ自体*が自分にとって害悪であるという認識によって引き起こされる、悲しみや怒りなどのネガティヴな感情」くらいに理解するとしましょう。伝統的な見方の一つによれば、このような感情の根本には、なにか良い物事を求め、手に入れようとする気持ちがあります。この見方では、嫉妬は愛が過剰に強まってなんらかの形で暴走した結果起こるものなのです。
だとすると、嫉妬の感情そのものは、良く生きるためには必要でない、できれば持たないほうがよいもので、嫉妬することは、それが、つい今「暴走」と呼んだ、なんらかの異常な状態(事実誤認やなにか他の悪い気持ち)に起因する限り、悪いことだといえると思います。しかし、重要なのは、嫉妬を感じてしまうしまう可能性は、良いことを求める気持ち、愛がある限り、完全に消すことはできないということでしょう。なので、愛が良く生きるために必要だとしたら、嫉妬の危険があることも必要であるといわなければならないかもしれません。
嫉妬に関しては、それが恨みや羨みや熱狂などとどう関係してどう異なるのかや、ある物事が本当に良い物事ならば、それが他人に起こったり他人の手中にあること*それ自体*は自分にとって害悪ではありえないという考えが果たしていつも正しいのかなど、難しい問題がいくつもあります。
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価値って客観的に定まるものなのでしょうか。何に価値を感じるかは人の主観ですから、価値は主観的なもののような気がします。でも、人間の主観も構造があるとすれば、その構造がわかれば、価値は客観的に決定できるといえるような気もします。少なくとも、人間社会における価値については。

悪くない筋の考え方だと思います。同じ物事に関して人々が違うように感じることから、その物事の性質や価値は人によって違うという結論は導けません。
正常に動作している温度計と壊れている温度計とで同じものの温度を計れば、それぞれ違う温度が示されるかもしれませんが、この場合は正常に動作している温度計が示す温度の方が正しいわけです。そして、ある温度計が正常に動作しているか壊れているかは、その温度計の構造を検査すれば(その温度計が示す温度が実際に正しいかどうかを知らなくとも)多くの場合わかります。
難しい問題は、人間が持つ価値に反応する力がはたしてこの例の温度計と似たような構造を持っているといえるかどうかです。少し違う言い方をすれば、人間の持つ価値に反応する力もに関しても、温度計と同様に、正常と故障・不具合の区別をつけられるか。これが、価値を「反応依存(response-dependent)」的なものとする人たちが考えなければいけない大きな問題です。
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中学の教科書に、文学は問題を提示するもの、科学は問題を解決するもの、って書いてあったんですが、その流れで行くと、哲学はなにをするものですか?

その流れでいくと、哲学は問題とその解決を理解しようとするもの、じゃないでしょうか。
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哲学と、思想ってなにが違うんでしょうか。

思想はたとえば世界や人間や生や社会のようなテーマに関するなんらかのまとまりをもった考えといえると思いますが、哲学はそういうテーマについて探究する学問のことです。哲学することが思想の産出につながることはしばしばですが、思想を生み出さなければ哲学ではないということはありません。また逆に思想は必ずしも哲学的探究の結果によって生み出されるものではありません。
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世俗的な価値と非世俗的な価値とは何が本質的な差異なのでしょうか。

「世俗的」を「宗教的」に対比するものとしてとらえるなら、宗教的かそうでないかが、また「世俗的」を「世の中の風俗・習慣」というような意味でとらえるなら、そういう意味で世間離れしているかそうでないかが、非世俗的な価値と世俗的な価値との違いになるのではないでしょうか。
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