السلام عليكم.
言語の違いにより通じる誤解、ムハンマドが
”خاتم الأنبياء”
であることと、後代の人間がアッラーと通じることが出来ることはなんら矛盾しないと理解しております。貴兄にアッラーのご慈悲がありますように。
信仰を持たないものには,特に何も思いません。いつか信仰者になってほしいとは漠然と思いますが。信仰を持たない者とは,単に友人は可能,家族は難しいと感じています。それで不便はありますが,孤独はありません。
「友達が欲しい、楽しい交流がしたい」というのが先に立つと、おかしなことになります。それは結果ですから。「様々な能力が不足している自分」と気が合う人間が偶々いれば、その人間が友達になり楽しい交流が出来るのではないでしょうか。そしてそれが結果的に、深い付き合いになるのでしょう。
私にバイア(忠誠の誓い)をした者は男女の別なく私に服従すべきと考えます。バイアは本人の自由意思によるもので、それがない限り服従すべきとも思いませんし、実際にそのようにも扱いません。
「マララが撃たれたのは、女子教育を推奨するからではなく、明確な嘘を流し反イスラームプロパガンダに協力するイスラームの敵だから」http://twilog.org/HKNSSSS/date-140903/allasc こちらがより詳しいです。(Sさんありがとうございます。)
義務は能力に応じて与えられます。力のある人間はより多くの義務を果たさなくてはなりません。その意味で、義務は平等ではありません。また、先ほどは権利という語を便宜的に用いましたが、それは人権イデオロギーの発想であり、権利という概念自体馴染みません。強いていえば、いまある自分の身体、太陽や水・・・といったものが、アッラーから与えられた権利です。
あまりにも欧米メディアのプロパガンダを間に受けすぎですね。女性教育は禁じられておらず、タリバンが女性教育を停止したのも金銭上の問題です。人権は欧米と同じ文脈ではありません、男性にも誰にもありません。それぞれの個々人にアッラーに与えられた義務と権利がある、それだけです。
両立可能と考えます。唯物論を持たなくても,唯物論的発展を理論的に理解することは可能なはずです。神が唯物論的発展をするように世界を構築した,という風に。
平安を求めないこと、働くこと
教義一般について,なぜと問うことは無意味です。科学的正しさや社会通念とは独立の論理形態を持つからです。禁じられているものは、禁じられているから禁じられているのです。