以前のツイッターで、「マズローやアドラーは古典として参考にするべきだ」と仰っていたかと思います。 マズローが古典なのは何となく分かるのですが、アドラーはどのあたりが先端研究と乖離があるのかをうまく理解できないでおります。 お時間あるときで構いませんので、ご教授頂けると幸いです。 よろしくお願いします。
アドラーが好きな人って多いですね。アドラーの主張はマズローと同様に個人の経験、内観に従った主張ですよね。それを主張するのは構いませんが、それが科学者の言葉でしょうか?思想家や臨床の実践者として見る分にはいいのでしょうが、現代から見て科学的とは言いにくい面があると思います。
現代の「心理学」で言及されるアドラーの主張は概ね、動機づけにおける「コミュニティへと駆り立てる衝動」と、パーソナリティーにおける「劣等コンプレックス」ですよね。それ以外は拾われることもないと思うんですが、それ以外の部分で結果的に許容できる要素を拾えますか?私は拾えないと思います。
また、その言及についても、後の学者が「コミュニティへと駆り立てる衝動」に類した「所属の欲求」について、どうもそういうものがあるようだ、というエビデンスを一生懸命に挙げていますが、アドラー自身はそれを前提条件としているんですよね。直感的に前提条件としたものを踏まえて彼の臨床の実践があるわけですが、その一部が正しかったからと言って、彼の理論全体をサポートできるわけではないですよね。
「劣等コンプレックス」は今でも一般に流布される考え方ですが、彼はそれを個人的経験からさしたる検証もなくあるものとしていますが、現状で受容されている考え方は「幼少期にパーソナリティや他者との愛着パターンが形成される」面もあるが「人の発達は生涯に及ぶもので、幼少期に特に限定されるものではない」といったところでしょう。
質問と合致した答え方ではありませんが、上記の2つのポイント以外に拾える部分は特になさそうだ、と思っています。臨床の実践者として実践していたことが、後の認知主義や認知行動療法等で使用されたとして、それは彼の理論体系が正しいということにはならないと思います。
また、実践というか臨床の話でいっても、クライアントの問題を解決できる問題だ、と捉えたとして、本当に解決できない問題を抱えた人は存在すると思いますよ。ただ、それは臨床家や実践者の信念に適合的なのであって、事実ではないのではないかな、と。臨床家が言う「有効」って本当に科学的に有効なのかな?といつも思います。
また、私の感覚で言うと、発問として意味ある発問も私はアドラーには発見できていません。古典として意味ある学者はたいてい問題規定に意味があるものがあった人が多いのですが、アドラーはそういう部分ありますかね?
ここから、かなり手厳しいことを書きますね。アドラーの目的論的に、目標達成を人間の行動要因として捉える部分について、意図するせざるを別として、多くの害悪がまき散らされた面があります。いわゆる自己啓発思想であり、経営では一時流行した「ビジョニング」ですよね。
軍隊において最強の兵士を作るためには、自己啓発思想はとても役立ちますし、米国で目標達成論的に人間を捉え、自分で目標設定を行いそれを達成するという兵士を要請した時期がありましたよね。それを退役軍人が広めたのが自己啓発の民間への流出だと思います。セミナーをやっている会社の顧問とか役員には「元大佐」とかそういう人がうようよしていた時代でしょう。それは目標設定されれば犬のようにその達成にまい進する人間を生産することには成功したかもしれませんが、それで人々はアドラーが言うように人間らしくあれたんでしょうかね?また、ビジョニングのように俗流の思想と合流して、達成イメージを持って、目標にコミットすれば実現に向かうと言った考えは、アドラーの思想からも少し離れているとは思いますが、影響を与えたことは否めないでしょう。目標を達成するには、外部環境と内部資源のたまたまの適合状況が必要ですからね。
といったところです。書きすぎましたがこれぐらいにしておきます。取り急ぎ、ご回答まで。
現代の「心理学」で言及されるアドラーの主張は概ね、動機づけにおける「コミュニティへと駆り立てる衝動」と、パーソナリティーにおける「劣等コンプレックス」ですよね。それ以外は拾われることもないと思うんですが、それ以外の部分で結果的に許容できる要素を拾えますか?私は拾えないと思います。
また、その言及についても、後の学者が「コミュニティへと駆り立てる衝動」に類した「所属の欲求」について、どうもそういうものがあるようだ、というエビデンスを一生懸命に挙げていますが、アドラー自身はそれを前提条件としているんですよね。直感的に前提条件としたものを踏まえて彼の臨床の実践があるわけですが、その一部が正しかったからと言って、彼の理論全体をサポートできるわけではないですよね。
「劣等コンプレックス」は今でも一般に流布される考え方ですが、彼はそれを個人的経験からさしたる検証もなくあるものとしていますが、現状で受容されている考え方は「幼少期にパーソナリティや他者との愛着パターンが形成される」面もあるが「人の発達は生涯に及ぶもので、幼少期に特に限定されるものではない」といったところでしょう。
質問と合致した答え方ではありませんが、上記の2つのポイント以外に拾える部分は特になさそうだ、と思っています。臨床の実践者として実践していたことが、後の認知主義や認知行動療法等で使用されたとして、それは彼の理論体系が正しいということにはならないと思います。
また、実践というか臨床の話でいっても、クライアントの問題を解決できる問題だ、と捉えたとして、本当に解決できない問題を抱えた人は存在すると思いますよ。ただ、それは臨床家や実践者の信念に適合的なのであって、事実ではないのではないかな、と。臨床家が言う「有効」って本当に科学的に有効なのかな?といつも思います。
また、私の感覚で言うと、発問として意味ある発問も私はアドラーには発見できていません。古典として意味ある学者はたいてい問題規定に意味があるものがあった人が多いのですが、アドラーはそういう部分ありますかね?
ここから、かなり手厳しいことを書きますね。アドラーの目的論的に、目標達成を人間の行動要因として捉える部分について、意図するせざるを別として、多くの害悪がまき散らされた面があります。いわゆる自己啓発思想であり、経営では一時流行した「ビジョニング」ですよね。
軍隊において最強の兵士を作るためには、自己啓発思想はとても役立ちますし、米国で目標達成論的に人間を捉え、自分で目標設定を行いそれを達成するという兵士を要請した時期がありましたよね。それを退役軍人が広めたのが自己啓発の民間への流出だと思います。セミナーをやっている会社の顧問とか役員には「元大佐」とかそういう人がうようよしていた時代でしょう。それは目標設定されれば犬のようにその達成にまい進する人間を生産することには成功したかもしれませんが、それで人々はアドラーが言うように人間らしくあれたんでしょうかね?また、ビジョニングのように俗流の思想と合流して、達成イメージを持って、目標にコミットすれば実現に向かうと言った考えは、アドラーの思想からも少し離れているとは思いますが、影響を与えたことは否めないでしょう。目標を達成するには、外部環境と内部資源のたまたまの適合状況が必要ですからね。
といったところです。書きすぎましたがこれぐらいにしておきます。取り急ぎ、ご回答まで。