大抵の有名大学の学生は在学中に自分がスペシャルな人間だと過信し、就活から入社数年くらいまでの間に自分の平凡さに落胆するプロセスを辿ると思うのですが、どう折り合いをつけるのが正しい方向なのでしょうか?
さあ、どうなんでしょう・・・。どの程度のスペシャルかによりますけどね。
東大であれば、在学中に司法試験に合格したり、会計士試験に合格したり、いろいろとデビューしてしまったり、米国の大学に普通に通いながら試験の時だけ東大に帰ってきて、米国の大学も東大も同時に卒業したりという人間がごろごろしており、かつ、駒場の場末に転がっている落ちこぼれ学生も、それなりにスペシャル(文一で落ちこぼれでしたが、まったく別領域の大学院に行き、成果を上げて研究者になるなど)という状況を経験していると思うんですが。在学中には「社会に出ればハンデ戦」とか思ったりするみたいですけどね。理系の院生であればノーベル賞取りたいと思っている人ばかりだったり。
サッカー部の後輩は外資系企業に就職したときに、「これまでサッカー部のぬるま湯につかってきたけど、これからは厳しい日々が始まる!」と思って過ごしていたら、サッカー部よりぬるい・・・、という状況に絶望したりしていましたけど・・・。
要は社会はぬるい集団で、就活はそのぬるさに耐えうる人間の選抜というふうに見ている人も割といたように思いますけど・・・。最近はそうでもないんですかね?
入社数年ぐらいまでは、平凡に自分を慣らすプロセスなんじゃないですかね?基本的にオペレーショナルな仕事につくのであれば、オペレーションが効率よくできることが望ましく、平凡人であることがむしろ求められると思うんですよね・・・。
どのようなスペシャルを想定しているんですかね?いわゆる大企業に就職して活躍するスペシャリティなんでしょうか。大企業の場合、横一線での評価が30歳ぐらいまで続くので、スペシャルなんてありえないと思うんですけど。ただ、とある大企業では「ゼロ選抜」という凡人の中のスペシャルみたいな扱いの枠があり、通常の出世とは違うスピードで出世するというのもあるはあるんですけど・・・。
ただ、大企業であればスペシャルではありえませんが、30歳になったときに、平凡人としての能力に途方もない差がついています。それはみんなある程度分かるシステムになっています。その中でトップなら平凡でないというか、非凡であるみたいな話であれば、非凡になるのって、そんなに難しいのでしょうか?
額面支給で給料1000万円超えるとかがスペシャルなんですかね?残業も入れれば、4年目で越えていたように思いますが、それはスペシャルですか?28で一応、上場企業で部長になり、20代は前例がありませんでしたが、それはスペシャルですか?
折り合いという意味は、能力の向上を放棄するという意味なのでしょうか?
自分がアタマがいいと思っているアタマがよくない人が痛いのは分かります。成果が上がらないケースで「俺は集団のリスクマネジメントをしているんだ」と主張している人もいましたからね。そういう人でなくなるということなのでしょうか?
平凡に生きていることも素晴らしいこと、と思えるのが折り合いなんでしょうか?私は、自分のような社会不適合者でも生きていけるこの時代って素晴らしいと思っています。
アバウトに言えば、日本社会に成立する均衡状態というものは、突出するもの、何かを決めてしまう者を許さないタイプの均衡ですよね。そして、集団から外れると日本人は米国人より悪いことをし、社会的ジレンマがあっても平気で自分の利得を優先する。しかし、集団に属さない人間を信用しないことによって、集団から外れる人間を徹底して極小化してきたため、大多数は集団に属し、秩序は保たれる。
これはこれで社会という視点で見れば合理的です。秩序維持をいかにするか?が社会の大きな命題ですからね。突出しても称賛されたいのであれば、米国社会のほうがいいでしょう。社会の成り立ちが違いますからね。
そもそも、日本社会でストレスなく普通に暮らせている時点で、平凡だと思うんですよね。そうなるような環境に置かれているんですから。それを自覚せざるを得ないのは痛みですよ。原口統三が言うような痛みでしょう。「傷のないところに痛みはない」というやつです。「20歳のエチュード」でも読んでみたらどうでしょう?非凡な人間は10代でこれぐらいの認識をしているというケースとしていいと思います。ちなみに彼は19歳で自殺しています。
有名大学から大企業に行ったのならば、3,4年でそれなりにカネがあると思いますし、合コンではモテるでしょうし、楽しくてしょうがないんじゃないですかね?そうでもないんでしょうか?
今、自分が楽しくないのでしょうか?それは才能の問題なのでしょうか?凡人だからでしょうか?よくわかりませんが、自分なりの幸せってなんでしょう?ぐらいに問うてみたもいいかもしれないですね。
つらつらと書いてしまいましたが、取り急ぎ、ご回答まで。
東大であれば、在学中に司法試験に合格したり、会計士試験に合格したり、いろいろとデビューしてしまったり、米国の大学に普通に通いながら試験の時だけ東大に帰ってきて、米国の大学も東大も同時に卒業したりという人間がごろごろしており、かつ、駒場の場末に転がっている落ちこぼれ学生も、それなりにスペシャル(文一で落ちこぼれでしたが、まったく別領域の大学院に行き、成果を上げて研究者になるなど)という状況を経験していると思うんですが。在学中には「社会に出ればハンデ戦」とか思ったりするみたいですけどね。理系の院生であればノーベル賞取りたいと思っている人ばかりだったり。
サッカー部の後輩は外資系企業に就職したときに、「これまでサッカー部のぬるま湯につかってきたけど、これからは厳しい日々が始まる!」と思って過ごしていたら、サッカー部よりぬるい・・・、という状況に絶望したりしていましたけど・・・。
要は社会はぬるい集団で、就活はそのぬるさに耐えうる人間の選抜というふうに見ている人も割といたように思いますけど・・・。最近はそうでもないんですかね?
入社数年ぐらいまでは、平凡に自分を慣らすプロセスなんじゃないですかね?基本的にオペレーショナルな仕事につくのであれば、オペレーションが効率よくできることが望ましく、平凡人であることがむしろ求められると思うんですよね・・・。
どのようなスペシャルを想定しているんですかね?いわゆる大企業に就職して活躍するスペシャリティなんでしょうか。大企業の場合、横一線での評価が30歳ぐらいまで続くので、スペシャルなんてありえないと思うんですけど。ただ、とある大企業では「ゼロ選抜」という凡人の中のスペシャルみたいな扱いの枠があり、通常の出世とは違うスピードで出世するというのもあるはあるんですけど・・・。
ただ、大企業であればスペシャルではありえませんが、30歳になったときに、平凡人としての能力に途方もない差がついています。それはみんなある程度分かるシステムになっています。その中でトップなら平凡でないというか、非凡であるみたいな話であれば、非凡になるのって、そんなに難しいのでしょうか?
額面支給で給料1000万円超えるとかがスペシャルなんですかね?残業も入れれば、4年目で越えていたように思いますが、それはスペシャルですか?28で一応、上場企業で部長になり、20代は前例がありませんでしたが、それはスペシャルですか?
折り合いという意味は、能力の向上を放棄するという意味なのでしょうか?
自分がアタマがいいと思っているアタマがよくない人が痛いのは分かります。成果が上がらないケースで「俺は集団のリスクマネジメントをしているんだ」と主張している人もいましたからね。そういう人でなくなるということなのでしょうか?
平凡に生きていることも素晴らしいこと、と思えるのが折り合いなんでしょうか?私は、自分のような社会不適合者でも生きていけるこの時代って素晴らしいと思っています。
アバウトに言えば、日本社会に成立する均衡状態というものは、突出するもの、何かを決めてしまう者を許さないタイプの均衡ですよね。そして、集団から外れると日本人は米国人より悪いことをし、社会的ジレンマがあっても平気で自分の利得を優先する。しかし、集団に属さない人間を信用しないことによって、集団から外れる人間を徹底して極小化してきたため、大多数は集団に属し、秩序は保たれる。
これはこれで社会という視点で見れば合理的です。秩序維持をいかにするか?が社会の大きな命題ですからね。突出しても称賛されたいのであれば、米国社会のほうがいいでしょう。社会の成り立ちが違いますからね。
そもそも、日本社会でストレスなく普通に暮らせている時点で、平凡だと思うんですよね。そうなるような環境に置かれているんですから。それを自覚せざるを得ないのは痛みですよ。原口統三が言うような痛みでしょう。「傷のないところに痛みはない」というやつです。「20歳のエチュード」でも読んでみたらどうでしょう?非凡な人間は10代でこれぐらいの認識をしているというケースとしていいと思います。ちなみに彼は19歳で自殺しています。
有名大学から大企業に行ったのならば、3,4年でそれなりにカネがあると思いますし、合コンではモテるでしょうし、楽しくてしょうがないんじゃないですかね?そうでもないんでしょうか?
今、自分が楽しくないのでしょうか?それは才能の問題なのでしょうか?凡人だからでしょうか?よくわかりませんが、自分なりの幸せってなんでしょう?ぐらいに問うてみたもいいかもしれないですね。
つらつらと書いてしまいましたが、取り急ぎ、ご回答まで。