ラディカルなカウンターの是非についてお尋ねします。強いことが言える人間に民衆はついていくということですが、それは元から積極的な人間に限られる話ではないでしょうか。カウンターの方々は自らを汚れ仕事の担い手として認識されていますが、汚さを含む言動を自らも行って非難されることを覚悟している人間だけのカウンターでは限界があると思います。ドレスデンのように、カウンターがヘイト側を「隙間なく」取り巻くのでなければ彼らを追い詰められない。日本のカウンターで現場に見られるのはヘイターとカウンターと通行人ですが、ヘイターの脳内では通行人がカウンターとヘイトの両方から目を背けていても勝利宣言がなされるのですから。
現在の反ヘイト・カウンター行動は2013年からプラカ隊と同時に始まっており、今もその流れの延長線上に都庁前の抗議街宣や反差別パネル展などがあります。これらの場合「汚さを含む言動を自らも行って非難されることを覚悟」する必要はありません。また、「強いこと」が指し示すものは威勢のいい言動というより、ヘイトに毅然と反対する言動を意味しますので、その意味ではドレスデンのプロテスターと共有しているものではないかと思います。いずれもラディカル(=根元的)です。