率直に, どんな功利主義の立場ですか?

さあ?功利主義にどんな種類があるのか知らないので何とも。なので自分の考えをここに述べるので、どの立場が近いのか教えてください。
ではいきます。まず現在の社会正義の基盤を成しているのは人権の概念であり、その人権は自然権や社会契約に基いて正当化されるわけですよね?でもね、これって正直フィクションが過ぎると思うんですよ。自然権と言うけれど、まずもって自然には権利なんて概念は存在しないわけじゃないですか。良くてホモサピエンス限定の概念だし、下手すりゃその手の人がいう様に「欧米の文化」でしかないんじゃないですかね?
その上社会契約もフィクションなわけでしょう。前述の自然権をこのようなフィクションに基いてこねくり回して社会正義を説明しようというのはあまりに危うい。まさに砂上の楼閣です。はっきり言って、社会契約に基づく議論は相対主義に勝てないと思いますね。「人権なんて欧米の文化。ウチにはウチのやり方がある」って言われたらどう反論するのでしょう?正直想像できません(実際、こういう事言う人沢山いますよね)。
また自然権や社会契約ベースの正義論では、それ単体で「何が基本的人権で何が違うのか」を説明できない気がします(要検証)。例えば参政権は基本的人権ですか?知る権利は?アクセス権は?インターネットをする権利は?ある土地に住む権利は?不労所得を得る権利は?また、それは何故?「文化的に(あるいは時代の流れ・あるいはパワーゲームの結果として)そうなっている」以外の説明を与えられるんでしょうか?自分には難しい気がします。
以上が、社会契約・自然権に基づく正義論に対する自分の懐疑です。そしてこれこそが、自分が功利主義を支持する理由でもあるんですね。つまり「フィクションはやめようよ」ってことです。自然権とか社会契約とか天賦人権みたいなフィクションに頼らず、実際に存在するもの、(時間的・空間的に)普遍に存在するものを用いて正義を語ろうよ、ってことですね。
じゃあ普遍性のある正義って何だ?……ってことを考えると、やはり幸福(快楽や効用と言い換えても可)に行き着くんじゃないですか?「誰もがそれを望み、誰もがそれを良しとするもの」の共通項を抜き出すと、必然的に幸福というタームに絞られると考えることはさほど不自然ではないかと思います(もちろん、中には「幸福は要らない、不幸になりたい」と言い出す人も居るでしょうが、その場合不幸がその人にとっての効用だと解釈することで普遍性を保てます)。
以上の議論から、幸福の増進こそが人類普遍の正義であると言えるでしょう。この意味で自分は功利主義者であり、ベンサムの考えを支持します。
ですが、それもここまで。ベンサムはこの先の議論で大きな過ちを犯しました。幸福(効用)の増進が正義。それは良いです。幸福は増進されるべきなのですから、その他の構成員に何の影響も与えず、ある人物を幸福にできるならそれは行うべきです。ですがこの「その他の構成員に何の影響も与えず」って部分がネックなんですよ。
なぜならある人を幸福にすれば、必ず別の人に影響が出てしまう。これはトロッコ問題的な分かりやすいケースだけでなく、特定の人物だけが幸福になることや自分だけが疎外されることに対する不満感もそうです。つまり、前述の議論で得られた「幸福を増進せよ」という命題だけでは絵に描いた餅で、もう一点「幸福をどのように分配するか」という独立した原理が必要になってくるわけですね。
もうお分かりでしょう。ベンサムの犯した過ちとは「幸福の総和が最大化されるように分配すべし」という命題を無批判に2つ目の原理に据えてしまったことです。
以上の議論から分かるように、自分はA「幸福の増進を原理に据えている/幸福を尺度として用いる」という意味で功利主義者ですが、B「最大多数の最大幸福原則を用いて分配する」を支持しないという意味で功利主義者ではありません。ところが世の中では「功利主義者」と言えば暗黙のうちにBを含むことが非常に多いんですよね(法学たんですら、この図式を用いてました)。功利主義という単語の字義はAなのですから、Bまで含めて功利主義者と呼ぶような用語法はBを支持しない功利主義者の自分からすると非常に迷惑ですね。
あ、ちなみに功利主義者と言えばベンサムの他にJSミルもよく挙がりますが、こちらは正直「ハァ?」って感じで全然支持していません。「誰もがそれを望み、誰もがそれを良しとするもの」の共通項として純粋な(他の価値判断を含まない)幸福を尺度に据えたというのに、「あれは良い幸福、これは悪い幸福」と幸福の内容を差別してしまうようでは最初に逆戻り。せっかく据えた正義の普遍性が毀損される結果にしかならないと思うんですけどね。
……と話が脱線したので元に戻しましょう。今、私達が見つけた原理はA「幸福を増進すべし」というものでした。ですがこれだけでは不十分で、「幸福をどう分配するか」についてのもう一つの原理が必要なわけです。
そこで登場するのがロールズ。そう、無知のベールから導かれる格差原理です。ロールズ自体は社会契約論の系譜に属するらしく、無知のベールの論法も平等な状態でなされた社会契約について論じたものです(詳しくは知りませんが)。ですがこれ、単に「こういう状況で行われた取り決めこそが真に公正だと言えるよね」程度の話にすり替えても十分に成り立ちますよね。社会契約がフィクションであっても、無知のベールの論法はなお有効だと思います。
また、無知のベールの議論は時代的でも文化的でもない、高い普遍性を有していると思います。抽象化されているから分かりにくいですが、無知のベールって要は「相手の立場に立って物事を考える」というヒューマンユニバーサルな倫理を言い換えてるだけですよね?「自分が集団の中でどの位置に属しているか分からないから、どの立場になっても良いような契約を結ぶ」ということは「『自分がその立場だったら』と考える」ことと同値です。そういえばカントも定言命法のチェック方法として似たような考えを提唱していますね。「他の人が同じような正義を据えても問題ないような倫理原則」こそが正しい、と。このような「相手の立場に立て」という倫理原則がどこから来たのかというと、おそらくヒトが群れとしての生活を通じて培ってきた進化的なものでしょう。脳にはミラーニューロンなる共感を司る部位もあると聞きますし、この倫理原則はフィクションでも文化的なものでもないと思います。
以上、まとめますと自分の立場は「幸福の最小値を最大化するように分配することが正義である」といったものになりますね。この立場、誰かが同じようなこと主張してるんでしょうか?もしそういう人が居るならぜひ教えてください。居ないのなら広めてください。ぜひぜひ。

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