法哲学(分析哲学)では議論の明晰さが重視されると思うのですが、「議論が明晰である」とはそもそもどのようなことを言うのでしょうか。いろんな人の言葉の端々から、明晰さの条件としてなんとなく感じるものはあるのですが(定義をきちんとするとか、平易な言葉で書くなど…)。「明晰である」とはどのようなことかを明晰化して頂けないでしょうか。

1) 明晰さとは世界記述の効率性です。おぉ、大きく出ました。
2) 順を追っていきましょう。まずはご指摘の通り、定義をきちんとするのは基本ですね。この点、何か意味のありそうな言葉を特に定義もせずに(というか定義しないがゆえに)さも重要そうなキーワードに見せかける、戦後日本の文芸批評の手法はかなりの悪影響を若者たちに与えました。具体的には小林秀雄や柄谷行人などですが(「意匠」とか「交通」とか、さっぱりわからん)、彼らの文章が現代文の教科書や入試問題に長年使われてきたことの弊害は大きいし、その影響は今でも残っています。なんていうとちょっと卑近な問題になりますかね。
 議論の進め方でいうと、ごく標準的な論理学や科学理論に明らかに反するような進め方は(そうした特殊なテーマを扱うのでもない限り)しない、というのも必要かと思います。これも、あえてそこから逸脱するようなレトリックを濫用することで鬼面人を驚かす文章が一時期流行し、その一部は「知の欺瞞」などとして批判されました。もちろん、その種の議論の近代批判のモチーフには重要なものもありますし、アイデアの源泉としての生産性も相応にありますから、いまさらそういうのを槍玉にあげてばかりでも仕方ないところはありますが。
3) ここまでは一般論で、まとめると、〈そこそこの知的訓練を受けた人であれば、特段の前提知識がなくとも、順を追ってじっくり読めば何が議論されているか理解できる〉といった程度です。要するに、〈雰囲気だけで意味ありげなことを書くな〉でもあります。「」〈 〉でくくった変な言葉がたくさん出てくるのにも用心です。
4) で、これだけだと常識的な文章作法の問題なので、もう少し、(分析哲学っぽい)法哲学に固有の問題(?)に進めましょう。分析哲学の大家である飯田隆先生が、まさに「明晰さの条件」について少し書かれています*。この内容にわたしもおおむね賛成ですし、6-7頁の議論は特に重要だと思います。しかし、ここでいう「理論」というのが何なのか、まだちょっとわかりにくい気もします。
* http://www.chs.nihon-u.ac.jp/philosophy/faculty/iida/BunsekiTetsugaku.pdf
5) ここで「理論」という言葉を「体系」という言葉に換えると、見通しが少しよくなりそうです。ある概念Aについて考えるとき、A単体で考えてもあまり明晰にはなりません。普通は、他の似た概念BやCやD…と比較し、違いや類似を考えていくなかでその位置関係を考えます。この「位置関係」というのがおそらく重要で、それが属する意味体系のなかで概念Aはこういう意味であり、Bはこういう意味であり、Cはこういう意味であり…、といったことが明らかになればなるほどに「明晰な」議論になっていくのではないかと思います。
 法哲学でいうと、「正義」「平等」「責任」「権利」「義務」などなどといった規範的な概念の体系が(たぶん)ありますが、それぞれが意味するものの領分を明らかにしながら進めようとすることに意識的な議論が明晰ということになると思いますし、逆に、そのあたりにあまりこだわっていない議論は法哲学的にはいまいち、という評価を受けやすいといえそうです。たとえば、「義務」と「責任」をろくに使い分けていない議論(たとえば、(1) 主体: 「誰が」どういう要件で負うものか? (2) 対象: 「誰に」対してどこまで負うものか? (3) 対になる概念などとの関係: 「権利」と対応するのかどうか? などなどの点)は、よくない議論です。具体的にいえばデリダです。
6) さて、冒頭の1)「記述の効率性」の意味がまだ手付かずです。ここまで、2)定義をしっかり、5)概念の体系内の位置関係をはっきり、ということを述べました。これだけだと、まるっきり自己流の定義で概念の伽藍を作り上げてもよさそうです。そういうことをしたのが、昔だったらヘーゲルで、少し昔だったらアーレントです。彼/彼女らにおける各概念はほどほどに意味ありげに関係付けられていますので、うまく再配置すれば「明晰そうに見える」概念体系を作り上げることは可能です。アーレントとかが人気なのはそういう知的ジオラマの魅力ゆえじゃないっすかね。
 そういった仕事のなかにはもちろん、優れたものもありますし、そこから現代の一般的な言葉の用法からは見えてきにくいものが見えてくることもあるでしょう。アーレントだったら、「政治」とか「権力」といったものについて、そういえば確かにそういう側面もありますね、というのを明らかにしたのはすごいことです。しかし、ああいったアプローチでないとそれができなかったのか、というとちょっと疑問に思います。端的にいうと、探求の道具をひとつひとつ手作りしながらやっているので無駄が多すぎる。
 我々は現に生きていくなかで、いろんな言葉を日常的に用いています。それは具体的なものから抽象的な概念まで、記述的なものから規範的なものまでさまざまですが、自己流で変な言葉を使っていても世界をうまく描き出せず、それでは他人と共有できないので、そんなものはやがて廃れていきます。そうやって時の試練を受けて生き残った言葉たちは、やや唐突に聞こえるかもしれませんが、世界のあり方をそれなりに正確に映し出したものでしょう(ここでいう世界のあり方には、法哲学が扱う規範的なものも含まれます)。もちろん、そんな対応関係?は何か証明できるような話でもなさそうですが、ひとまずはそう想定するのが(あえて反対する理由もないという意味で)合理的であろうし、というかそれ以外にうまいやり方も当座はなさそうだし、ということで言葉の日常的な用法に着目し、その概念の位置関係を整理していくことによって世界のあり方(規範とか含む)を描き出そうとするのが分析哲学(の発想を受け継いだ法哲学)の基本的なアプローチだと思います。
 というわけで、「2)定義をしっかり、5)概念の体系内の位置関係をはっきり」ということは、無駄な概念を増やすことなく世界を効率的に描き出そうという要請になります。そしてその記述は、我々が日常的に使っている概念をうまく整理・分析することによってこそ最もよく得られるものであるからして、そこから離れた独自の用語法で議論するの無駄な遠回りになる危険が高そうです。他者と共有するためのコストが高いという意味でも効率的でないですし。もちろん、そうした遠回りによってこそ描き出される何かもあるでしょうが、そういうものの探求はあんまり分析哲学とかの仕事ではないんではないかと思います。
7) みたいなことを考えてますが、6はいかにもうそくさいですね。それに、分析哲学とかなんか連発していますが、それ全般について語れるわけないです。日常的な用語法からあまり離れないで分析するといったって、その分析道具自体は劇的にテクニカルになっていて日常でもなんでもなくなっていますし。だから、分析哲学っぽい発想を受け継いだ法哲学の、さらにごく一部の側面についてしか述べられていません。あとなんか、多方面disってるし。でもまあ、5ぐらいまでであればそこそこ常識的なことだと思いますので、そんなところ

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