先日ジェンダーと法哲学について質問した者です。法とそれ自身の批判の両面の必要性について仰っていましたが、現在提起されてるジェンダー的な問題、例えば人工知能学会の表紙の是非(適切な事例ではないかもしれませんが)などについてはそうしたスタンスから建設的な議論、あるいは相手にそれを促す意見の提示を行うことは可能でしょうか。 ジェンダー問題は日常的であれ政治的であれ、どうしても感情的な言い合いに終始して本質が流れてしまう印象があり歯がゆく思っています。

1970年代ぐらいからのフェミニズムの多くは、法的な権利レベルでの男女平等の要求からさらに進んで、ああいった「表象の暴力」の告発を積極的に行ってきました。表象というとわかりにくいかもしれませんが、要するに日常的に流布される文化的イメージのことです。その中に男女差別を助長するものがある、もっといえばそれ自体が差別という「行為」なのだと。人工知能学会の表紙の是非の件も、おおまかにはそういった流れの延長に位置づけられると思います。

その種類の問題提起はとても重要ですが、そうした運動が「法」や「権力」を呼びだそうとするとき、ときに危なっかしい方向に流れてしまうこともあります。象徴的なのが、アンドレア・ドゥオーキンらが進めたポルノグラフィ規制が、性表現を抑圧したい保守派に逆用された事案です。そうした問題を法によって解決しようとするとき、ときにその意図を超えて広範すぎる影響を持ってしまうこともあります。またはその逆に、法によってできることはそれほど多くはないにもかかわらず、法制度レベルでの論争に終始することでかえって社会に存在するミクロな暴力が覆い隠されてしまうといったこともあります。人工知能学会の件では、ああいった表現を法的に規制しようといった議論は多くなかったようで、おおむね穏当なところで議論が落ち着いたと思いますが、たとえばヘイトスピーチをめぐる議論(これは必ずしもジェンダー問題に限りませんが)ではそうした危なさ(両面とも)があるように感じます。

そこで法(哲)学的なジェンダー論がやるべきことはまず、法によってできること・できないことの線引き、その影響の射程などを適切に示していくこと(もちろん、それ自体の吟味も含めて)であろうと思います。もちろん、そこで議論が終わるわけではまったくないのですが、そうした問題と法や権力との関係を整理することは、適切な問題設定にとって必要な作業ではあるでしょう。

人工知能学会の件は、個人的には、そうした問題から少し離れて、フェミニズムあるいはジェンダー論の運動の(文化的)文脈性、歴史性、あるいは最終的な解消可能性といったところから関心を持ったのですが、これは問題が大きくなるのでもっと考えてからでないとまとめられそうにありません。

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