道徳は弱者のルサンチマンであるという見解についてどう思いますか

 ニーチェのそういうのは、キリスト教道徳の「現実の」欺瞞性を暴く上ではそれなりの歴史的意義はありましたが、それ以上に一般化するのは難しいと思います。そもそも何を言ってるのかよくわからんものが多すぎますし。結局のところ、ニーチェ自身のルサンチマンを他者に投影するだけの情けない話だ、というのもありますけど、まあ、そこまでいうのにはちょっと慎重になったほうがいいかもしれません。
 
 ごく大雑把にいうならば、道徳が共同体の中のごく閉じられた体系である限りは、そこからはみ出る人々を抑圧する拠り所になりえます。そういう意味では、変化に耐えられない人々にとって、硬直した慣習としての道徳は現状肯定するための便利なものですね。それを利用する動機の根底にルサンチマンがあるというのも説明としては理解できます。ここでの「弱者」というのはあくまで変化に耐えられない人々であって、現実には圧倒的なマジョリティであることも少なくないというのがポイントです。
 一方、道徳がそうした閉じたしきたりから離れ、異質な他者とコミュニケーションするルールとして機能し、変化に向かって開かれたものになっていくにしたがって、単なる現状肯定には使いにくくなります。というのは、その普遍化可能性ゆえに、それまでの閉じた道徳体系の中で抑圧されていた人々にとっては自身の主張を通すための強力な武器になっていきます。ルールは明確であればあるほど万人にとって使いやすくなる。逆にいうと、ある道徳なりルールなりが曖昧でよくわからんもので、その解釈権限が一部の人に(ギルド的に)独占されている状態であれば、冒頭のニーチェ的な暴露が炸裂することになる。
 ……なんてふうに抽象的にいってるだけではどうにもわかりにくいかもしれませんが、ここでいってるのはたとえば、法律がなんだかよくわからない曖昧な体系で専門家が恣意的に解釈しているようなものであれば、それにアクセスする資源を持たない弱者にとっては抑圧的なものになる。それに対し、形式化が進んで誰にでもアクセスできるようなものになればなるほど、それは弱者にとって「逆用」しやすいものになる、といった対比です。まあ、もっとおそろしく簡単にいってしまえば、これこれの権利があるといったことが誰の目にも明らかなように法律にビシッと書かれてしまえば、もうそれは強者とか弱者関係なしに使えてしまう。だからニーチェ的な意味での「弱者」はそれを嫌って、その解釈権限を手放さず、できるだけよくわからんものにしておきたがる、という感じ。
 いやいやそんな単純な発展図式を描くのは普遍化の暴力というものであってだね、というポストモダンな批判もあっていろいろややこしくなってまいりますが、そういったことを思想史的に丁寧にたどった本として、ドゥルシラ・コーネル『自由の道徳的イメージ』(仲正昌樹・吉良貴之監訳、御茶の水書房、2014年予定)がもうすぐ出るのでよろしくお願いします☆、と最後は宣伝でシメて終わり。

View more