イーストウッドの男たちにてコーネルはイーストウッド映画をマスキュリニティの限界の自覚と解体という視点で解釈してますが、日本でもそういう典型的マスキュリティ神話とみせかけたマスキュリニティ解体という構造を持った作品が出てくると思いますか?

 日本ではむしろ、まるっきりのマッチョなヒーロー物語みたいなものがもともと少なくて、作られる前から解体されていた!みたいな変な話になっちゃいそうなものが多そうですね。たとえば、笠原和夫脚本による一連のヤクザ映画とかは、コーネルの本で論じられていたような、典型のようでありつつも抗いがたくズレていく男たちの悲劇を描いたものとして観ることができるんじゃないかと思います。
 むしろ、なんで日本ではあからさまなマッチョ映画が育たなかったのか、という問いのほうが興味深いかもしれませんね。戦意高揚映画とかも、今から見るとなんだかわびしいものばっかりで、こんなもので当時の人々は何か燃えてきたりしたことがあったんだろうか?と不思議に思うものばかりですし。石原裕次郎とか小林旭がマッチョなヒーローだったかというとなんか違う気もするし、寅さんはもちろん違うし、まあなんかよくわからない。

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