リバタリアンは、動物の権利や動物の自由についてはどのように考えているのでしょうか。

 いろんな人がいろいろ言ってて、わりと議論が活発な問題ですね……。
 
1) 動物=property説――所有権の適正な配分
 リバタリアン的には動物というのは単に property(モノ、財産…)であって人間による所有の対象になるにすぎず、権利や自由の主体にはなりえない(だって責任とか義務の主体でもないんだし!)という強硬なことを言う人もわりといます。
 この路線で考えると、誰かの所有物である動物に対する加害は所有権の侵害であって許されず、したがってその反射的効果としてだったら動物の福利もある程度は守られる、みたいなことになる。で、動物虐待とかの問題はむしろ所有権の適正な配分がなされていないからだ、といった感じでしょうか。これはさまざまな環境問題に対するリバタリアンの回答に近いですね。
 そういう考え方だと、たとえば野生動物の乱獲とかは、現実にその所有権をどう分配するのかという問題はあるにせよ、理論的にはある程度防げることになります。しかし、これでは明らかに足りないですよね。自分が所有権を持っている動物(ペットとか)には何をしてもいいかというと、なかなかそういうわけにもいかない。そこで理論的一貫性のほうを選ぶなら、リバタリアニズムは「使える(guiding)」思想ではないという烙印を押されることになります。なので、穏健なリバタリアンだったら、どうにかして動物の福利を守る方向で考えています。
 
2) 権利主体性の問題――普遍的な基準は可能か?
 動物を権利や自由を享受する主体として認めうるかというと、「完全に」そうであると考えるリバタリアンはあまりいないでしょう。そこで権利主体性という意味で人間と動物を分かつものは何か、というのは難問で、たとえば「理性」といった知的な能力を基準にして線引きをすると、かつての素朴なパーソン論と同様に人間にも跳ね返り、そこから除外される人が出てしまう。それを防ぐためにはごく基本的な受苦能力といったもので考えるのがいいかもしれませんが、そうすると権利主体としての動物があまりにも広がりすぎてしまううえに(肉食はもうたぶん無理)、それでも昏睡状態の人はどうかといった問題は避けられない。
 だから、ひとつの基準で線を引くのは難しいので、一方でそうした主体の側が有する性質を基準にしつつ、他方でそれは権利主体として現実の我々は認めているかどうかという慣習(convention)によって制限されるという「合わせ技」でいくしかないのかなとも思います。これは結局のところ慣習に一元的に還元されてしまうのではないかとも思われそうですが、そういうわけでもなく、普遍的な基準を打ち立てることによって我々が権利主体としてみなす慣習に影響を与え、変えていくという方向もあるし、実際、動物についてはここ数十年ぐらいでそれが飛躍的になされたという歴史があります。この方向はアドホックにならざるをえないのではないか、という批判は当然にありますが、あまりそれを恐れていても話が進まないのではないかしら。
 
3) 危害原理、あるいは人道的配慮?
 ここまで動物の「権利」といった言葉を使ってきましたが、これは道徳的に相当な重みのある言葉なので、あえてそうしたものは使わないほうがいいのではないか、という議論もあります。つまり、動物の権利を考えると前節で紹介した主体性の基準の問題など難しくなるので、問題を反転させ、動物に対する人間の側の配慮義務だけを考えればよいとするものです。権利に対応しない義務も普通にある以上、権利などという余計な概念を使う必要はない、というわけですね。リバタリアン的には、権利の根拠として意思説(選択説)を好む論者が多いですので、その点でも動物に権利主体性を認めるにはハードルが高くなってしまいます。
 では義務だけで考えるとして、①人間は動物に対していかなる配慮義務があるのか、またそこでいう②「動物」とはどこまでの範囲なのかといった問題があります。①についてはいろいろありますが、ミル的な危害原理が準用できるという主張もあります。そこでいう「危害」が人間に対するものとまったく同じ基準でいいかというとそうもいかず、たとえば「余計な苦痛」を与えないような肉食のあり方であればかまわないとか弱めるのが穏当そうではありますが、なぜそこで弱めていいのか?というとまた難しくなってきます。そこで②の範囲によって、①で求められる程度も違ってくるとかいう説明が可能かどうかが問題で、おそらくはそうするしかなさそうですが、まあこれもなかなか、というところです。この範囲の問題は、2の議論に合流することになります。
 このあたりは、リバタリアンな原理を維持しつつどうにか穏当な結論を導こうとする議論ですが、どうしても人間に跳ね返ってくるのでそうそうすっきりしたことは言いにくいですね。それよりはもう、リバタリアン的な一貫性はもうあきらめて、「人道的配慮」といったものを持ち込むか、あるいは一定の功利主義的考慮によって修正するかといったところでしょうが、それをあんまりやるといかにもアドホックになってしまうので、リバタリアンな原理でなんとか頑張れないものかと私としては思っています。

View more

Ask @tkira26:

About 吉良貴之@法哲学:

プロフィール
http://jj57010.web.fc2.com
主なQ&Aまとめ
http://jj57010.web.fc2.com/askfm.html

池袋