共和主義と熟議民主主義は違うものなのですか?共和主義は熟議しないのですか?単なる民主主義との区別も難しいです。共和主義と熟議民主主義は何もない民主主義より熟議を重視して共和主義はさらに何か付加される感じという理解で良いですか?

 そのあたり、論者によって言うことがまちまちなので、あまり気にしなくてもよいと思います……。キャス・サンスティンみたいに共和主義者でありつつ熟議民主主義論者として扱われる人もいれば、マイケル・サンデルみたいに共和主義者を自称しつつも熟議民主主義の文脈ではあまり出てこない人もいる。
 共和主義というのは長い伝統のある多面的な思想なのでまとめにくいのですが、1980年代以降のアメリカの政治思想の文脈に限っていえば、それまでの利益集団多元主義的な民主主義理論(=「単なる民主主義」?)が共通善創出機能を失っている、それによって民主的決定は「正統性の危機」に陥っている――これはリベラルな個人主義のせいだとかこじつけられることもある――という批判意識をもっていて、そこは熟議民主主義論、あるいは一部の共同体論とも重なっているところかと思います。
 とりあえず①リベラリズム、②共和主義、③熟議民主主義理論、④共同体論というふうに並べてみると、このそれぞれは実際のところ焦点をあてているテーマが違うといった感じで、いろいろプロレスはしていたものの、結局のところ実質的な対立はそれほどなかった、といった具合に総括されてしまったのが現状ではないでしょうか。ざっくりまとめてしまうと、①リベラリズムは個人権の保障、②共和主義は共通善・公共善の創出の仕方や自己統治の価値、③熟議民主主義理論は民主的政治過程を活性化させ、より正統な決定にいたるための条件、④共同体論は「自我の諸源泉」のあり方……などなどの考察といったところで、細部を見ればそれなりの対立はありますが、結局は別々の問題を扱っているというふうな。なので、ある論者を明確にどれかに分類できるかというとそういうわけでもなく、どの要素が強いかという程度問題として考えればよいのではないかと思います。
 それでご質問に戻りますと、③熟議民主主義論者のなかであんまりリベラルと自己規定したくないひねくれた人が①共和主義者を自称しているという消極的な側面もあったり、あるいはもっと積極的に共通善とか公共善とはなんぞやとか自己統治の価値とか語ったり、といった印象です。そういうのなんか気持ち悪い、と考える熟議民主主義論者はそこから距離を置いて、マイノリティにとっても正統な民主的決定の条件をいろいろ論じたりして、だいたいリベラルですし、あるいはもっと多文化主義的な方向に行く論者もいます。スローガン的にさっぱりまとめてしまえば、③熟議民主主義論者のなかでも「統合」志向の強い論者は①共和主義っぽいし、「差異」志向の強い論者はリベラルだったり共同体論だったり多文化主義だったりその他もろもろに分かれる感じかなあ。……と思ったものの、サンデルなんかは実質的にこれ全部やってるようなところがあるので、そこまで意味のある分類でもないというか、あんまり対立的に考える必要はないのではないか、というぐだぐだな話で終わり。

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