なぜ、法学の議論において、直観に反する結論を導くことは不当なのでしょうか?功利主義のように、理論的純一性を優先し、直観に反する結論が導かれることを許容する立場も十分にあり得る思います。直観などという曖昧なものを当不当の基準とするのはなぜなのでしょうか。

 法というのはひとまず、紛争を解決し、社会に秩序をもたらすための手段です。そうすると、現実にその社会で生きている人々の直観というか、道徳感情みたいなものをまるで無視していては社会の期待に応えられません。法学にはもともとそういう「実践の学」としての縛りがあります。なので、現実の紛争解決その他のニーズにうまく「使える」理論の構築を多くの研究者は目指すわけです。
 もちろん、理論的にとことん突き詰めた(そして反直観的な)研究が不当というわけではまったくなく、筋が通った面白いものであればアカデミックにきちんと評価されます。ただ同時に、現実の法実務にあまりに「使えない」のではちょっと、実務と研究の距離を作ってしまっていかがなものか、とも評価されるわけです。そういう距離がいいことなのか悪いことなのかというのも意見が分かれるところで、もう最初から別物だし、みたいに考える研究者も相応にいらっしゃいます。なので、ご質問の前提は法学者のあいだでそこまで共有されているわけではない、とはいえます。しかしそうはいっても、学部やロースクールとかの段階でいきなり理論まっしぐら、というわけにもいかず、まずは実践の学としての法学の基本を学んでから、というのは叩きこまれますので、そのあたりでそういうイメージができているのかもしれません。
 
 直観に反する結論が導かれるのは不当、というのはそういった、どちらかといえば保守的な法学観が前提にありますけれど、もちろん、そうした反直観的な議論のメリットもあります。たとえば社会の大部分が頑迷固陋な道徳感を振りかざしていてマイノリティを抑圧しているような場合だったら、そうした「直観」に合わせることがよいとはいえませんので、理論的に筋の通った議論を突きつけることによって、その直観そのものを変えていくように反省を迫ることも必要になってきます。
 ご質問にありますように、功利主義はそうしたラディカルな社会改革の基礎としての役割を歴史的に担ってきましたし、これからもそうであることでしょう。別にこれは功利主義に限らず、リバタリアニズムであれなんであれ、理念的なものには多かれ少なかれそういう役割があります。もちろん、あまりにその社会の現実から離れたものでありすぎると相手にされにくかったりしますので、実際には理論的一貫性と現実的実行可能性の微妙なバランスのなかで頑張るものが大半ではあるでしょう。
 最後にちょっと付け加えですが、直観が曖昧なものかというとまたそれもいろいろで、本気でぼんやりしたものに依拠していても説得力が弱まりますから、直観との適合を重視する論者でも、できるだけその分節化(articulation)を行っている場合がほとんどではないでしょうか。我々の直観というのは、たとえば「人を殺すのは悪いことである」みたいなぼんやりしたものであっても、よくよく分析してみるといろいろな要素が混じったものであるわけです。「人」「殺す」「悪い」といった言葉がどういう意味で使われているのかを丁寧にみていくことによって、そうした直観のなかにあるさまざまなサブ直観を抽出することができますし、そのそれぞれの関係を考察することもできます。意外と曖昧なものに依拠していたんだな、ちょっと反省、というのはけっこう、そうした作業を通じてわかってくるものです。なので、直観との適合性を議論のスタート地点にするのはそういった、問題発見的な意義もあるわけです。

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