リバタリアンとリベラルを分ける決定的な違いってあるのでしょうか?無政府資本主義以外は国家に求める機能の相対的な違いしかないような気がするのですが。

 リベラリズムというのはまあ、『正義論』のロールズを見ればわかりますけど、リバタリアンよりはもっと包括的(comprehensive)な政治道徳の構想としてあるわけです。社会のあり方から人間いかに生きるべきかまで一気に語ってしまいたいような野心的なところがある。なので、ロールズだと互恵(敬)性(reciprocity)とか、正義感覚とか、善や徳のあり方とか、社会の組成や成立条件から個人の生き方まで、かなり多様な問題を扱うことになる。自由や所有の概念にしても、リバタリアンよりずっといろいろな――積極的な――ものが入ってくるわけです。『政治的リベラリズム』期においてそういった議論はかなりの程度に「歴史的所与」のほうに追いやられてしまいましたけれども、その包括性志向自体は全体として維持されているとみることができる。こうした志向は、他のリベラルも、たとえばロナルド・ドゥオーキンやジョセフ・ラズ、ウィル・キムリッカなど、それぞれの論者が独自の形で展開しています。
 リバタリアンにそういう志向性がないかというと必ずしもそういうわけではなく、たとえばアイン・ランド系の論者みたいに「強い」主体像を描き出すのが好きな人もいるのでそれぞれではあります。が、典型的には『アナーキー・国家・ユートピア』でのノージックのように(その後のノージックはまた違う)、そうしたさまざまな包括的政治道徳の構築をあえて拒否するというか、各人のまるっきり自由な領分にするか、あるいは人間本性や社会の「事実」の問題として楽観的に放り出してしまい、ごく限られた戦線でのみ禁欲的に戦っているようなところがある。なので、その戦線だけを見れば国家の役割とかについてリベラルとの程度問題のような印象を受けるのではないかと思います。
 というわけで、ご質問に対しては、リバタリアンが関心を持っている部分ではリベラルとの違いは程度問題に見えるかもしれないが、むしろリバタリアンが関心を持たない部分において本質的な違いがある、といった感じかと思っています。もちろん、こういうのはかなり私の畢竟独自の整理という感じもしますので、他によい分け方があればそれでいいと思いますし、あくまで程度問題としてみるのもまあ、いろいろあるんじゃないかと思います。

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