デリダやフーコーと現代英米政治哲学の正義論を接続して論じると、どんな感じになるのか気になっているのですが(一昔前のポストモダン系の本と現代英米政治哲学は問題意識や論点自体を共有できていない場合も多い気がするので)、そういう試みをした本や論文で良いものはありませんか?

 私も翻訳に関わっていますが、ドゥルシラ・コーネルはまさにそういう試みをずっとしている論者ですので、どれか1冊ご覧になってみてはいかがでしょう。ポストモダン系の論者に特有の概念の遊戯みたいなところは(あまり)ないですので、こういった分野のなかでは読みやすいほうだと思います。そのコーネルの翻訳に携わっている仲正昌樹先生や岡野八代先生などの著作も、ポストモダン系の思想と英米系政治哲学の架橋といったことが強く意識されていますので、ご一読をおすすめします。ほか、最近よく紹介されている人だと、アクセル・ホネットやナンシー・フレイザーなどもおおまかにはそういった流れに位置づけられるかと思います。ジュディス・バトラー系統とかになるとちょっと、あまりにも何を言ってるのかわからないので滅ばないといけないと思います。
 フーコーと法哲学というのは最近わりと研究が盛んになっている分野で、翻訳だとハント&ウィッカム『 フーコーと法』(久塚純一・永井順子訳、早稲田大学出版部、2007年)、日本の法哲学者による包括的な研究書として関良徳『フーコーの権力論と自由論――その政治哲学的構成』(勁草書房、2001年)があります。いずれも非常に明晰で読みやすく、現代の英米の法・政治哲学との同時代性も強く意識されています。

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岡口裁判官によって柳は迷惑かけられてるの?柳は法曹じゃないから関係なくない?

.まあ、本名で SNS やることのリスクが間違った感じで広まってしまったというか。

大学から人文系を無くせという声はあるが、数学を無くせという声はあまりないのはなぜでしょうか。数学の研究は、直接もしくはすぐに役に立たなくても必要だと思われていて、他分野や社会から一目置かれている。人文系もかつてはそうだったはずで、それが変わったのはいつごろで、なぜそうなってきたのでしょうか。

.入試科目として数学が重要になったから、数学なくせなんていうとバカっぽく思われるからじゃないかな。文系科目は誰でもそこそこできるので0点はないけど、数学はコンプレックス刺激しやすいし。あと、もともと数学のポストなんてほとんどないけど、人文系は大学の拡大とともにどんどん増えたので、いろいろ恨みも買っているのだろう。

ここ数年ヤクルト村上が不振なんだけど、これは柳もまた村上ファンを公言できるのでは?

.あのホームランがいいのであって、打たない村上なんか知らんわ。

こいつまじで馬鹿だなって思ってもらって、それで出てってくれるならそれでもいいんだけど?

.出ていかないっしょ。あーこいつ馬鹿だなーと思われながら表面上で言うことだけ、みたいになる。人を出ていかすのはとんでもなく難しいんだから、入れた以上は力を生かしてもらうように工夫しないと仕方がない。

職場の院卒の若手が全然使えないです。机上の学問は実務じゃ通用しないんだよってマウンティングしてもいいですか?

.うわこいつマジで馬鹿だなって思われるだけだよ。

柳は新書とか書く予定ある?これから出す単著のエッセンスだけ抽出した初心者向けみたいなやつ

.日本語で一般向けの仕事をするインセンティブがとことんなくなっているので、そんなゆるいものは書かないと思う。

「講談社現代新書を書くのに向いてそう」は文系研究者が言われるのは嬉しいですか?

.講談社、中公、岩波だったら悪口とはそうそう思われないんじゃないか。

三権分立における司法権の独立って観念的過ぎてこういう事態にきめ細やかに対応できないよね

.そんなの自分が観念的にしか理解してないからだよ。弁護側の主張を読むだけでも、賛否はともかくいろんな論点がある。

裁判官って停職や減給ができないから何かやったら弾劾裁判で罷免するかしないかってなっちゃうのだろうか。

.日本の制度上はそう。アメリカではそれが問題になって、連邦裁判官の場合、連邦裁判所内で懲戒の手続きがいろいろ作られた。でも身内に甘いことが問題になって結局、弾劾になる例が最近は目立っている。しかし、連邦議会(特に下院)も弾劾は最後の手段と考えていて、担当の事件に直接関係する非行(賄賂とか)でなければ最終的な弾劾には至りにくい。どや、詳しいやろ。

おじさんは「侮辱したな!法廷で会おう!」みたいな心境になることってないの?もしあるとしたら、それはどんなとき?

.おじさんじゃねーし

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