リバタリアンは公共性をどうとらえますか?

.ごく形式的に答えると、秩序維持にとって不可欠なもののうち、市場や共同体によって自生的に実現されるのは不可能、または著しく困難だったり非効率だったりするもの、ということになります。
.といってもそれは「公共財」か何かそれに類するものであって、「公共性」とはまた違うのではないかといわれるとそれもそうなので、そうすると「公共性」という概念自体、本当に必要なものかどうかが問われなければなりません。そして、私としてはそうした概念が必要かどうかには懐疑的です。ごく抽象化するならば「社会にとっていいこと」「みんなの幸せ」みたいな空虚なものになりますし、より具体化するならば「正統性」「手続的正義」「アカウンタビリティ」といったものに分解できそうにも思います。さて、そこで「公共性」概念に何が残るか。もしかしたら何も残らないかもしれませんし、あるいは、そうした概念分析には汲み尽くせない、経済的合理性を超えたおどろおどろしい情念のような、「残基」としか言いようのないものがあって*、人間本性はそれを追い求めるとか考えるのもありかもしれません。
.なんていうとなんかおおげさな感じですけど、世の中には「やりたがり」が一定数いるもので、世間一般で「公共性」となんとなく言われているものはそういう人々に任せておけばそれなりにうまくいくものだ、と楽観的に考えるリバタリアンは多いんじゃないかと思います。「……いいのかそれで」と言われそうですけど、やってはいけないことだけを消極的に定めておけば、あとはそれなりの秩序ができるんじゃないかしらん。るんるん。
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* 橋下努「公共性の成長論的再編」(井上達夫編『公共性の法哲学』ナカニシヤ出版、2006年)

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