「哲学なんか所詮主観だろ」と言われたら、どう返しますか?

.とりあえずぶん殴って「痛いか!だがその痛みはおまえの主観だからおれはわからん」といってもう一発叩きこむとかでしょうか*1。でもそういう暴力はいけませんね!
.「主観だろ」というのは、「証拠の出せない思い込みに過ぎない」とか「価値観なんて人それぞれで結論なんて出ない」というdisだと思いますけど、さて。

1) テキスト(場合によっては言語や世界)は客観的な存在である
.ごく穏当に答えるならば、1) でもこれまで人々がそうしてきた営みは客観的な検討対象になる、とか。これまでたくさんの哲学者たちが偉大なテキストを残してきたわけで、哲学はその意味を探求している。それは科学者たちが自然を観察してそこにある法則とかを探求するのとそんなに変わらない。確かにはっきりとした結論は出ないかもしれないが、少なくともまったく誤った解釈は淘汰されてきたわけで、その意味で進歩がないわけではない。というか自然科学も基本そういうものであって、そこで何か哲学に対する優位を説くんだったらかなり素朴な科学観である、うんぬん。
.これは思想史的な作業についてはひとつの応答になると思いますが、テキスト解釈を離れてもっとクリエイティヴな探求をする哲学だとどうでしょう。上述の「テキスト」をもっと広げて、「言語」とか「世界」に読み替えれば同様のことが言えるので別にいいと思うんですけど、でもそれはちょっと違和感がある、という方も多いかもしれません。「結論」部分で、間違いが淘汰されていくといった消極的な意味でさえ何らかの「進歩」があるという想定自体を認めない人もいるでしょう。

2) 結論は主観的かもしれないが、プロセスは客観的でありうる
.そうすると、結論の部分で主観的だったり答えが出なかったりするのは譲ったうえで、でも、2) プロセスの部分は相応に客観的にできる、という応答でも十分ではないかと思います。我々は哲学の名のもとにいろんな主張をしているけれども、でもそれは単に無根拠な言いっぱなしを相互にやっているわけではなく、そこには一応の対話があり、相互の検証プロセスがそれなりに客観的なかたちで存在しているわけです――ここまで「客観的」という言葉をきちんと定義していませんが、とりあえずは「誰でも共有できる」ぐらいでかまいません。
.たとえば、「太陽がまぶしかった」というカミュ的事実から「人を殺していい」という結論は(少なくとも直截には)導き出せない。だとすると我々は、そうした論理規則その他のいろいろな議論作法を「客観的に」共有しているのであって*2、そこでの対話は(間違ったものを排除できるという消極的な意味でしかないかもしれませんが)相応に「客観的」でありうるし、そこから何か有用な発想とか出てくることはなんぼでもあります(証明されていなくても有用、みたいなものは自然科学でも同様にいくらでもある)。こうした「議論作法」は、自然科学でもたとえば追試可能かどうかとか一定の「客観的」な基準(認知的価値)が共有されているのであって、そこのところは別に哲学と大幅に変わってくるわけではない。といった具合に「自然科学もよく考えたらそんなに変わらないだろ?」論法で答えていくのがいちばんわかりやすいんではないかと思います。自然科学も主観だし、とか言われたら冒頭に戻りましょう(ぇ

3) 「所詮主観」って、それはそれで主張するの難しいよ?
.ほか、主観とかいったって実際こうやって我々は会話が成立しているじゃん、ということは意味をそれなりに共有「できる」のであって、にもかかわらず過度な相対主義にもっていくのは詭弁だとか、あるいは冒頭の「痛み」の例も一応はそうですが、我々は主観的なことでも現実にはいろいろと共有している。それは倫理的なことでもある程度はそうで、「何の理由もなく暴力をふるうことはよくないことである」「人々がそこらへんで餓死している状況は悪いことである」みたいな価値判断は「人間本性として」共有されている、そうするとそこから出発してその意味を丁寧に分節化していくといったことは十分に「客観的に」なされうる、とか、まあ、答え方はいろいろだと思います。
.いやいやそんなのさえ認めないから、といった頑固者には、はいはい全部主観です、でもそれを面白がる人々が一定数いる以上はちゃんとした需要があります、とかでもいいですかね。さすがにこれは別の話になってるかなー。

*1 【問い】この推論(?)の誤りを指摘せよ。なお、類例として「科学的事実が社会的に構成されるというならば、今すぐ12階から飛び降りろ」などもある。
*2 ここで rule-following paradox とか持ち出すのであれば戦争になります。

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