個人の人生の意味やwell-beingというのは、法哲学では研究対象となっているのでしょうか。 倫理学でしたら、ホットな感じはしませんが、脈々と存在している話題という印象はあるのですが。

.一般的にいって、倫理学で話題になっていることは法哲学でも多少の温度差はあれ話題になっている、と思ってもらって大丈夫かと思います。法哲学というのは「法」が実現すべきものとしての、あるいはそれから区別されたりするものとしての倫理的・道徳的な「価値」がどういうものであるかも扱いますから、そこでのテーマ自体は倫理学で行われていることとかなりの程度に重なっています。
.たとえば、何か望ましいものを(平等に?)分配するにあたっての正義を考えるにあたっては、そこでの望ましいものがいったい何なのかという問題を避けて通ることはできません。「個人の人生の意味やwell-being」についても、多くの功利主義(より広くいえば帰結主義)系の論者や、あるいはセン=ヌスバウムなど客観的リスト志向の論者であればその中身を直截に論じます。リベラルの多くは、そういった「善の諸構想」は人それぞれが自由に追求すべきものとしていったんカッコに入れておいて*1、その追求の条件を考える(資源の平等など)といったかたちでアプローチします。リバタリアンは、コミュニタリアンは、とかいろいろいうとキリがありませんし、そのなかでも立場は猛烈に分かれてくるので一概にはいえませんが、まあとにかくそんなふうに研究対象となっている、というお答えです。
.ただ、そういう価値をそれ自体として扱うというよりは、その先の(分配的)正義論とか法概念論の基礎として研究する、といった性格はもちろんありますので、そこらへんで倫理学の議論とはちょっと違ってくることはありますね。

*1 リベラリズムについてのよくある誤解で、そうした個人の幸福とかは人それぞれで「わからない」からこそ自由な追求に任せるべき、というのがありますが、そうした「善の不可知論」をとる論者はそれほど多くありません。論者によってはけっこう、自分なりの暑苦しい「人生哲学」を語ります。ポイントは、そうした善が客観的に「わかるかわからないかにかかわらず」、その追求は各人の自由に任せるべきというまた別の規範的主張であるということです。そうでないとたとえば「愚行権」といったものがうまく理解できなくなります。

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