「正義」という言葉が恥ずかしくて使えません。気負ってる感じがして。変でしょうか?

.別に変なこともないです。井上達夫『共生の作法』(創文社、1986年)の書き出しはそのへんの「正義」のもやっとした感覚からその人権ならぬ「語権」を救い出そうとする印象的なものです。共感できるところもあるかもしれません。
.というのはさておくとして、せっかくのその感じ、もうちょっと深めてもらえてらいいなと思います。たとえば別の似た言葉に置き換えてみるのはどうでしょう。適当に並べてみますが、「公正」「公平」「正当」「まとも」「合理的」「理性的」「マシ」「許せる」「OK」「シュッとしてはる」などなど、まあ、正しそうな言葉だったらなんでもいいです。そして、「正義」だとなんか気負っててイヤだなあ、というところにこういう言葉を代入してみて、そんなに違和感なくいけるのはどこまでかを試してみる。もしかしたらナシで済ませられるかもしれませんが、たぶんどうしても「正義」という言葉を使わないとしっくりこない場合もあるんじゃないでしょうか。それってなんでかなあ、というのを考えてみると、「正義」概念(concept)特有の何かがぼんやり浮かび上がってくるのではないかと思います。

.ひとつだけ試しにやってみると、上の例のなかの「マシ」という言葉はなんというか、どっちも不満なんだけどその不満がなんとか我慢できるほうを選ぶ、みたいな感じで比較というか程度問題が入っている評価です。たとえば、無実の罪で収監されている人がいるとしましょう。この人の懲役が1年である場合と、30年である場合を考える。そもそも無実なんだからどっちもよくないんだけど、よくないどうしの比較だったらまあ、1年のほうが「マシ」と判断するのではないでしょうか。しかし、1年のほうが「正義」だとはどうもいいづらい。無実なんだからさっさと釈放すべき、というのが正義の要求であって、そこには程度問題の余地はないように思える……とか。そうすると正義は程度問題ではなく、「正解」かそうでないかという話なのか……?といったふうに考えがいろいろふくらんでいくと、日常的になんとなく使っている言葉の意味が揺らいできてなかなか楽しい哲学的体験となるのではないかと思います。

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