「政権ごとに憲法解釈を変えることができてしまう」とこぞって言いますけど、戦後の自民党民主主義のもとでは憲法解釈をつねにしてきましたよね…?それに吉田政権の解釈とそれ以後の政権の解釈は違うと教わりましたので解釈変更(=解釈改憲?)も以前からあったのですよね?憲法を解釈するのが反立憲主義なのか解釈改憲が反立憲主義なのかも分かりません。 解釈改憲行為が是とすると、解釈改憲をするのは(どこかしらの)誰かしらの政権によってなのだから時の政権が行為主体となって解釈改憲するのは問題ないのではと思ってしまいます。憲法学も勉強せず、曖昧な質問ですみません。

.きれいな解釈改憲ときたない解釈改憲があるんですよ。なんていうとあんまりなのでもうちょっと丁寧に答えます。

1) 「解釈改憲」は国家が何か行うたびにつねにすでに行われている
.まずはご指摘の通り「解釈改憲」は別に珍しいことではありません。9条の解釈が変遷してきたのはわかりやすい例ですが、それ以外にも、極端なことをいえば、憲法のもとにある国会や行政が何かをするたびごとに憲法の解釈が行われ、その意味が更新されてきました。だから解釈改憲自体がいけないといっても仕方がない。国家が何かを行うたびにそれは行われているものです。では、どういう解釈改憲がいけないのか、という話になります。

2) 日本国憲法の精神に適合する「解釈改憲」かどうか――実質的価値による評価
.たとえば憲法24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基」づくと規定しています。この「両性」が何を意味するか。ここで憲法上、同性婚が許容されているかどうかという問題が議論されますね。憲法制定当時、同性婚が念頭に置かれていたとは考えにくいですから、両性というのはそのまま男性と女性のカップルのことだ、というのは自然な読み方です。しかし、時代も移り変わり、同性婚を認めるべきだという議論も有力になってきました。そこで、だったら「両性」を「両当事者」と読み替えればよい、という主張もなされていますが、この「解釈」は認められるかどうか。おそらくこれは集団的自衛権の解釈改憲よりは反発が少ないと思います。というのも、24条1項の趣旨はあくまで家制度から個々人を解放することにあり、「両性」をわざわざ男性と女性というふうに文字通りに解する、つまり婚姻を男女に限定することに主眼があったわけではない。したがって、そうした経緯をふまえるならば「両当事者」とする解釈はむしろ日本国憲法の個人主義の精神を実現する方向の「きれいな」ものである。そういう主張は、賛成するか反対するかはともかくとして一定の筋の通ったものではあると思います。
.この24条の例は、日本国憲法の精神を実現する方向のものであるかどうかによって「解釈改憲」のよしあしが評価されうるというものです。では、9条はどうか。9条を素直に読めば個別的自衛権さえも否定されているように思えます。しかし、個別的自衛権さえないようでは国家存立の基盤そのものを憲法が否定しているようで、それはさすがに自己破壊的で、そもそもの平和主義にもそぐわない解釈といわざるをえないのではないか。といったふうに、文言上はかなり苦しいですけど、なんとか必要最小限度の個別的自衛権までは日本国憲法の平和主義の精神に適合する範囲内のものである、といった政府解釈が維持されてきたわけです。ここまでの解釈であれば、おそらく根本的に反対する人はそんなに多くないのではないかと思います。もちろん、9条の理念自体は尊重されるべきものとして、自衛隊の過度の拡張への歯止めとして援用されたりもするわけですが、それはいずれにせよ、日本国憲法の平和主義の精神を、国際社会の現実のなかでよりよく実現すべきであるという前提を共有したうえでの解釈の争いといえます。
.では今回の集団的自衛権の解釈改憲はどうか。これも安倍首相は、あくまで日本国憲法の平和主義を実質化するものだといった説明をしています。つまり、平和主義の理念をよりよく実現するためのものであると。それであと50年も持たせるならば戦後レジームって安泰ですね☆という皮肉はともかくとして、またその将来的な意図もともかくとして、現時点での安倍首相の説明は、日本国憲法の平和主義の精神そのものを変更しようとするものではない。その精神を現実の国際社会の現実のなかでよりよく実現するためのものであるという従来の前提は維持されたままです。今回の解釈改憲に反対する人々の多くは、そんなものはまやかしにすぎず、日本の軍事国家化を推し進めるものであって平和主義の精神を後退させるものだ、といった方向かと思いますが、それでも一応、日本国憲法の精神のよりよい実現のあり方はどういうものか、という解釈の枠組みは共有しているといえます。

3) 解釈の安定性と正統性
.そうすると、日本国憲法の精神を実現する方向の「解釈改憲」であれば自由に行ってよいのか。これはこれでどうかと思う人も多そうですね。先に例に出した24条1項にしても、同性婚法制化には賛成するが、だったら24条1項をしかるべく改正するのが筋だ、というふうに主張する方も(あまり多くはなさそうですが)います。集団的自衛権にしても同様に、それ自体には賛成だが、だったら9条をしかるべく改正するのが筋だ、という主張も(これは法律家・法学者を中心にそこそこ多く)なされています。こんなふうに手続きの「筋」を強調するのは法的思考の基本といえますが、ではなぜそれが必要なのか。日本国憲法の改正はあまり現実的ではない以上、解釈改憲という裏技によって時代に合わせるのも一定の合理的なやり方ではないか。そういう批判にどう答えるべきか。
.ここにあるのは、なぜ手続きがそんなに重要なのか、という問題です。説明の仕方はいろいろありえますが、あまり長くなってもあれなのでひとつ、解釈の「安定性」で考えてみましょう。今回の集団的自衛権の解釈改憲は、1981年の政府見解を修正するもので、つまり30年以上(実質的にはもっと)にわたって政府および日本国民(のみならず世界中?)に「共有」されてきた解釈といえます。途中に政権交代など挟みながらも長いあいだ維持されてきた解釈というのは、内容はまた別として、それ自体として年月の重み――としての正統性――があります。それがいかにも裏技のようなやり方で変えられたならば、それは憲法秩序そのものの正統性(信頼、受容根拠)を脅かす、だからダメ、というふうに「内容のよしあしは別として」批判することもまた可能なわけです。これは9条のように日本国憲法の三大原理としてずっと信じられてきたものであればより強い規範的制約となりうる――24条はおそらくそれほどではないし、1) の日々の日常的な解釈改憲であればなおさら弱くなる――ことになります。我々は日本国憲法のなかで、解釈を安定的に共有すべきと強く信じる部分と、それほどでもない部分を分けています。その区分自体にたいした実質的根拠はありませんが、しかしそれは憲法秩序の正統性にとって無視できない要素です。

.というわけで延々と長くなりそうなのでもうまとめますが、1) 「解釈改憲」といっても日常的に行われているものである以上、それ自体で悪いわけではない。したがって、2) 日本国憲法の精神を適合するかどうかという実質的な基準と、3) 解釈の安定性による憲法秩序の正統性という手続的な基準の、双方の緊張のもとに評価されざるをえないのではないかと思います。たとえば24条1項の「両性」については、3) の規範的拘束はそこまで強くないので 2) 中心で考えてよさそうなのに対し、9条の解釈は 2) 3) 両者が最も鋭く対立したり、あるいは補完したりする関係にあるといえそうです。

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