いや真面目な話、パターナリズムの何がお気に召さないのでしょうか?現実問題、有る程度のパターナリズムがないと我々は生きられないのではないでしょうか。最終的に高齢者福祉を受け取ったアイン・ランドのように

.パターナリズムを丁寧にいうと、1) 判断能力を備えた相手に対し、2) 当人の利益になるという理由で、3) 当人の意思に反して、4) 他者が強制的に何かの行為をさせる(させない)こと、となります*1。ご指摘の例だと同意があるので、3) 4) を満たさないです。もちろん、その同意は困窮によるもので真正なものではなく、生きるためにはその給付を受け取る以外の方法がない場合は強制的になることもあるでしょうから、広義のパターナリズムと考える余地もあるかと思います。しかし、多くのリバタリアンは最低限度の生存のための再配分は認めますから、そういった意味でのパターナリズムまでは通常、否定されません*2。
.パターナリズムの典型例は、たとえば自殺しようとしている人を警察官が問答無用で押さえつけるとかでしょうかね。自殺でなくても、確実に後遺症の残る薬物の使用とか、臓器売買とか、自己奴隷化など、生命身体の不可逆的な毀損をともなう場合は同様かと思います。このあたりは、リバタリアンは自殺権を認めるかどうかといった論点にかかわります*3。自由を行使する主体そのものを消し去る行為は自由ではありえない、といったことを理由として自殺を認めないリバタリアンもそこそこいますので、そうした考えからすれば上記の例はパターナリスティックな介入が許されることになります。
.それに対し私は、自己所有権は処分権まで含まないことには十全なものではない、と考えるため、そこでの介入も否定します。もちろん、放置してよいという話ではなく、飛び降り自殺のように緊急性が高い場合(判断能力の有無を確かめている余裕がないなど)は仕方ないと思いますし、強制以外の方法によって説得するのは別にかまわないので、そういういった行為に何の問題もないという話ではありません(やっぱ自殺なんてされたらイヤですよ)。でも、本人がそうした説得を受けてなお、真摯な考慮の末に行うものであればあえて他者が強制的に介入すべきではない、というふうに考えます。
.なので、パターナリズムの何がイヤか、という当初のご質問には、愚行権や自殺権を含む消極的自由の侵害であるから、とシンプルに答えることになります。それを超える(override)事情がある場合にのみパターナリズムが容認されますが、その範囲はリバタリアンによって異なります。また、ここで否定されているのは(主に公権力による)強制的な介入ですので、それが否定されたからといって生きる基盤が広範に失われてしまうということもありません。市場や、私人間のチャリティによって実現されるものもたくさんありますので、国家によるパターナリズムを最小化したからといって何かが大きく変わるということはそんなにないと思います。

====
*1 いわゆる「リバタリアン・パターナリズム」も、3) 4) があやしい(だからこそ「リバタリアン」がつているわけですが)類型になります。
*2 同様に、義務教育は 1) を満たさないのでパターナリズムの問題ではなく(人道的考慮による?)保護主義のような話になりますが(そしてそれは一般に肯定されますが)、この用語法が必ずしも定着しているわけではないので、この「判断能力を備えない相手に対する介入」もパターナリズムの一種として語られることもあります。そういうものにあえて反対するリバタリアンはさほど多くないと思います(私も違います)。
*3 愚行権は当然に認められます。

View more

Ask @tkira26:

About 吉良貴之@法哲学:

プロフィール
http://jj57010.web.fc2.com
主なQ&Aまとめ
http://jj57010.web.fc2.com/askfm.html

池袋