やはり子孫を残さない人間はダメなのでしょうか?

.人々が子を生み育て社会を維持してくれているからこそ、自分も生きていけるというのは事実としてありますよね。その恩恵にあずかりながら自分は子孫を残さない、DINKS とかでいい生活をしてよいのか、というのはフェアネスの観点から問題にしうるだろうとは思います。他者の子育て負担にタダ乗りしてよいのかどうか。リバタリアン的に反論すれば、別に人々はフェアネスとかいちいち考えておらず、相応の条件さえ整えば、社会を維持できるぐらいの子は生み育てられるだろう、と楽観的に考えることもできると思います。現状の社会保障は貧しい若者から豊かな高齢者に資産移転するひどいものになっているので、それなくせば子育て環境も改善するだろうと。もし、それでも少子化が止まらないのであれば、そこで国家ができることはたいしてないですし、別にそれでいけないこともないと思います。
.ただそれはあまりに無責任ではないか、という反論も予想されますので、そうすると先ほどのフェアネスの観点から、フリーライドに対して一定の課税を行ってそれを子育て支援にまわすといった方策も考えられます。とりあえず DINKS税とでも名付けておきます。もちろん相応の事情がある方は免除し、また子育てに関わるさまざまな社会的・制度的困難が取り払われたならば、という条件での話です。こういった DINKS税の効果としては、1) そんな税金を払うぐらいならば子育てするほうがいい、という人が増えて少子化対策になるかもしれません。
.もちろんこれ、なんだかイヤなものを感じる方も多いかと思います。ここには法(課税)がもたらす社会的スティグマの問題があります。子を生み育てる人々は免税され(しかもさまざまな支援が受けられ)、一方、そうでない人々は課税される。いくらフェアネスやフリーライドの問題があるとはいえ、これはやはり「子孫を残さない人間はダメ」という評価を法的に行っているといえるのではないか?ということです。むろん、そうした評価がなぜいけないのか?というのもまた難問です。現状、税制その他で両者の扱いは事実として異なりますし、より抽象的な話としては、共同体は自身を存続させるためには子育てまでセットになった異性愛規範を維持するインセンティヴを持つ――それがまったくなかった(ゲマインシャフト的)共同体は歴史上おそらくない――ということもあります。こうした再生産の必要と結びついた社会的スティグマに、たとえば上述のリバタリアン的楽観論でない形で反対することは可能か?と問うこともまたできるでしょう。これはフェミニズム的に相当の難問のように思います。
.そこでもしかしたら、ということで DINKS税の話に戻りますが、この社会的効果はおそらく両義的なものです。「子孫を残さない人間はダメ」というネガティヴな方向へのスティグマにつながるおそれももちろんある一方、2) 税金を払っている以上はフェアネスやフリーライドの問題は生じないし、さらにいえばそうすることで再生産にまとわりつく異性愛規範性や聖性?その他の面倒な価値を剥ぎ取る可能性もまたあるでしょう。a) 再生産にともなう効用と負担、老後の安心、税制的優遇、b) 再生産しないことによる金銭的余裕、老後の不安、DINKS税負担、その他いろいろあると思いますが、そうしたものをひっくるめて比較したうえで a と b いずれかの選択をすればよい。ここにあるのは、フェアネスやフリーライドの問題が放置されているがゆえに異性愛規範性や再生産の聖性がそこに(過剰に?)充填され負のスティグマを生み出してきたのではないか、という問題意識です。だったらその充填部分をカネの問題にしてしまうことで、面倒な価値の問題を解消または最小化する方向もあるだろうと。簡単にいえば「税金払ってるんだから何の問題もないでしょ?」と言えるようになるということですが、まあこれはどちらに転ぶかよくわからない話なのであくまでひとつの可能性として述べるにとどめます。ここからはおそらく、a とb が価値的順位のない単なる個人的選好になったとしてもなお共同体の再生産が維持できるかどうかという事実問題に依存しそうなところです。それが不可能であれば埋め合わせとしてのスティグマは残存するでしょうし、また別の仕方での対抗策を考える必要があるかと思います。

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