ロールズ批判について質問した者です。法哲学の教科書のほとんどでは、ロールズがコミュニタリアンからの批判を受けて、包括的哲学におけるリベラリズムから、政治構想のみを描く政治的リベラリズムへ転向したと説明されています。『普遍の再生』の最後の方で井上先生が批判されたのはこの点だと思われるのですが(だいぶ前に拝読したので記憶が曖昧です、すみません)、哲学分野と政治分野を分断して考えるのはなぜ問題なのでしょうか。何ができなくなってしまうのでしょうか。井上先生も説明なさっていたと思うのですが、一介の素人にはレベルが高すぎ理解できませんでした。「肉体的死よりも先に哲学的死を遂げていた」というショッキングなコ

メントをするほど井上先生を突き動かしたロールズの誤謬とはいったいなんだったのでしょうか。
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.『普遍の再生』(岩波書店、2003年)の第7章「普遍の再生――歴史的文脈主義から内発的普遍主義へ」から引用してみますね。
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立憲的精髄[constitutional essentials]の同定において、ロールズは対立競合する伝統解釈のうちの一つの解釈にコミットせざるをえず、したがってまた他の対抗解釈に対して、自己の解釈が「我らの伝統」をよりよき光の下に照らし出すものであると判断する哲学的論拠を提示しなければならない。重合的コンセンサスの仮構に隠れることは、論争的な解釈にコミットしながら解釈論争を超越した中立的な高みに自らを置いて哲学的論証責任を回避する欺瞞的な工作である。(246頁、[]は引用者)
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.他にもいろいろな論点がありますが、おそらくこの部分が最も本質的ではないかと思います。『正義論』ロールズは「無知のヴェール」下での合理的選択や、反照的均衡といった装置でもって正義原理の包括的(comprehensive)な正当化を行っていたものの、『政治的リベラリズム』期においてそれは放棄され、その社会(というかアメリカ)の政治的伝統に内在するものとされた。ごく簡単にいえば、正義は「正当化」されるべきものから、穏当な多元主義の事実を受け入れている社会の「所与」になったわけです。そこでは正義の原理について何か哲学的な正当化はもはや必要なく、各集団が動機はバラバラでありながらもとにかく合意できている部分としての「重合的コンセンサス」があればそれで足ります。哲学的ではなく政治的(political、あるいは free-standing)というのはそういう意味です。
.これの何が問題かというと、やはりそこから排除される集団というのがあるわけですね。井上先生が同じページで例に出しているのは「異教異端の迫害をも辞さない宗教的・道徳的ファンダメンタリズム」ですが、こういうものはなぜリベラルな民主主義社会で認められるべきでないか。それは我々の政治文化にはそぐわないから、というのでは「ダメなものはダメ」というだけで理由になってないですね。後期ロールズの政治的リベラリズムはそんなふうに、重合的コンセンサスの外にある人々からの異議申立てを問答無用に排除しているわけです。重合的コンセンサスに「参加」できるのはすでに一定の力のある集団だけなので、そこからはみ出る弱者の声を前もって排除することになりますが、そうした歴然たる排除を「伝統」のようなよくわからないもので中立性を装って覆い隠すのはたいへんにけしからん、というのがここでの趣旨でしょう。それに対し、他者からの異議申立てにつねに開かれ、公共的な理由による正当化を繰り返していくなかでリベラルな社会は多様性を包含し、より強靭なものになっていく。そこで「普遍」は、現実に達成されることは決してないけれども、しかしその存在を理念として共有することによって初めて我々の討議は有意味なものとなる、といったふうに位置づけられます。
.というわけで、ごくあっさりとまとめると、後期ロールズ的な「政治」志向は、ある正義原理のセット(ここでは立憲的精髄)を「正当化」すべきものとしてではなく、その社会の政治文化の「所与」とすることによって、その枠組みに入らない他者からの異議申立てを前もって排除してしまう。それに対し井上先生は、リベラリズムは「普遍」という目標を共有することで他者からの絶えざる異議申立てに公共的理由によって応答し、討議していくなかで自己を刷新していく「公共性の哲学」であるという理解を対置しているといえます。後期ロールズは文脈のなかに引きこもり、井上リベラルは普遍に向かって開かれる。
.どちらが魅力的かはさておくとして、お答えとしてはそんなところです。「肉体的死よりも先に哲学的死を遂げていた」という弔辞は、哲学史的にはわりとよくあるものですし(例としてはメルロ=ポンティに対するアルチュセールとか)、ロールズの場合はむしろ自覚的に脱‐哲学化したわけなので、これ自体は中立的な言い方です。むしろロールズの「時代とともに死ぬ」決意の潔さへの一定の尊敬の念さえ含まれていると思うのですが、ショッキングな批判としてわりと多くの人々に受け取られたのは井上先生としても不本意だったかもしれません。

.なお、こうやってまとめておきながらあれですが、私自身はこうしたロールズ理解をあまり共有していません。確かに多くの文献ではロールズの「転向」がこんなふうに記述されていますし、ロールズ自身も「哲学から政治へ」みたいな言い方をやや過分な自己演出も含め行っているのですが、こういう考え方自体は『正義論』の時点でほぼ出揃っていたのではないかと思います。
.「無知のヴェール」下での合理的選択といっても、その内容はいかなる選好をもった人を選び出すかによって決まってしまう。つまり「登場人物」は「1人」しかいない。そしてその「1人」の選好は「反照的均衡」によって決まるわけですが、この不思議な装置は結局のところ後期ロールズが強調するところの政治的「文脈」を言い換えたものに他ならない。なので、少なくとも『正義論』と『政治的リベラリズム』のあいだには「転向」といえるほどの内容上の違いはなく、せいぜいが表現上の力点が変わった程度であろうと思っています――本当に「転向」したのであれば晩年に『正義論』の(マイナーな)改訂版をわざわざ出すはずもない。もちろん、ロールズのような「政治的」リベラリズム構想に対置する形で普遍志向理論を打ち立てることの是非はまた別に議論されるべきですが、「哲学的」ロールズと「政治的」ロールズを対比させる理解にはあまり乗れないというのが正直なところです。

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