東大法学部の講義は、かなり学術的な色彩が強いように思うのですが、研究者にならない人(あるいは、法曹にもならない人)に対して、アカデミックな教育をする意義は、どこにあるのでしょう?

.東大法だったら実用的なことはみんな勝手に勉強するので、講義では研究者の本気を見せつけて学問の凄みみたいなもの感じてもらうとか。もうちょい一般的にいうと、実用的なことはどうしても賞味期限が短いし、いざとなれば独学もできるので、大学の4年間ぐらいはちょっとぐらい浮世離れしたことを徹底的に考えて頭を柔らかくしておく、それは40年ものの財産になる、みたいな感じです。
.私も基本的にそれに賛同するんですが、しかし、例のL型大学構想みたいなものへの批判としてそういうことが語られる場合、結局のところ文系研究者の自己満足や雇用維持しか考えられていない場合も多いのが残念です。大学は短期的な実用に走るのではなく長期的な基礎体力を身につけさせるべき、というのはいいんですが、その中身はいったいどういうもので、それにあたって伝統的なアカデミズムにどういうアドバンテージがあるのか、という問題はもっと厳しく問われないといけないでしょう。最近の大学改革の流れでそこに疑問をつきつけているのはまさにそうした教育を受けてきた人々なのですから、ポピュリズム的反知性主義と一緒くたにして学問の長期的効用をお説教したところで相手にされません。
.私自身は法哲学や法思想史のような、見るからに役に立たなそうな学問を専門科目として教えているわけですが、長期的な基礎体力とか、柔軟な思考力の育成とか、あまり単純にそういうことは言いたくない思いがあります。もちろん最終的な目標を一言で、というとそういうものをあげますけど、それに開き直ってただ学説史的なことを講義しても工夫がないように思っています。じゃあどうするのかというとそこは試行錯誤になりますけど、講義するときには、他の法律学や政治経済の問題にとことん結びつけるようにして、あちらではああいうふうに考えるけれども、では法哲学的には……みたいに新しく捉え直すことで横のつながりを作っていく、ということを意識しているつもりです。日常ではまず考えることのないような変なことを考えてこそ大学での勉強ですが、ではそれによってどんな面白い発想が出てくるかまで実演してみせて初めて、研究者になるわけでもない多くの学生にも有益な刺激が与えられるというか。そしてそれは単なる付け焼き刃の学際性ではなく、伝統的なアカデミズムの蓄積があって……ぐらいまで言えればいいんですが、大きな話になりすぎてもあれなのでこのへんで。まあ、現状の大きな流れに昔ながらのやり方で抵抗しても仕方ないので、そこでどういう生き残りが可能かをもっと現実的に考えていかないといけないでしょうね。

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