正直、日本の実定法を英語で教えたりとかどんだけ意味あるのか、という気はする。用語なんか翻訳難しいのではないか

.なんかそうやって法文化の特殊性を強調するのも「逃げ」みたいでよくないと思うんですよね。逐語的な翻訳はそんなに難しくないんですよ。問題は理解するのがたいへんだということで、法学というのはとにかくその分野全体をまわしてやっと最初の部分が理解できるところがある。民法とか典型的です。あと、その国特有の法文化のようなものも踏まえないといけない。ということで「つまみ食い」がしにくいというのが最大の特徴です。なので、その「全体」を英語で学ぶだけのメリットがあるかどうかが問われますが、そもそも相当にたいへんですし、学んだことを実際に「使う」にはまた日本語にしないといけない場合が多い。じゃあ結局、最初から日本語で全部やるのが効率的、という話にもなります。
.でもその一方、先端的な問題(知財とか環境とか?)についてはそれなりに世界共通で動いている部分もあります。あと、憲法のように原理的な話が大きなウェイトを占めるものはそこまで文脈に縛られる必要がない。だから、そこで過度に法文化の重みとか全体論的理解の重要性とかいってハードルあげるのはかえってグローバルな対話可能性を閉ざしてしまいます。
.だから、うわべだけの理解をされる危険は十分に承知しつつも、それでもとにかく「日本法ではこんなふうに考えます」というのを英語で発信してみるのもまた必要なことだと思います。それで誤解が生じれば、それだけ対話のきっかけができていいんじゃないでしょうか。法文化は翻訳できないとか、そもそも自国語にさえ言語化できない暗黙知の堆積で成り立っているというのはよくいわれますし、実際そういう面があるのは確かなんですが、一方でそれはギルド的閉鎖性を温存する言い訳でしかない面もあるので、むやみにそんなことばっかり言うのはとてもよくないです。言語化しよう、翻訳しよう。

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