アメリカとフランスの自然法思想が違いますよね。地域や民族によって人権観は違うわけです。新しい人権という言葉がありますが、時代によっても人権観は変わります。普遍的に守るべき法や権利と言っても、何を守るべき法や権利とみなすかは、普遍的ではないわけですよね。人権観は伝統的文化にすぎないのではないですか?

.とりあえずは「そんなにむちゃくちゃ違うわけではない」というのがあると思います。ご質問の文脈に合わせ「人権」を(普遍的かどうかはおいといて)共同体秩序に資するものといった程度に性格づけてみましょう。その各共同体秩序が存続する目的は、経済的繁栄とか、構成員の福祉とか、伝統的価値の保持だとか、宗教的結束だとか、いろいろあるにはありますけれど、せいぜいが大きく10個ぐらいにまとめられるものです。これが何千、何万といった具合にまるでバラバラ、というわけではまったくありませんので、「地域や民族によって違う」というのをあまり強調するのは事実に反すると思います。おおまかな枠組みは共通しているものの、細かい点ではいろいろ違うところもある、という程度で、アメリカとフランスの違いなんてもう、全然たいしたことないんです。
.そしてその「細かい点での違い」が今後、世界的にひとつになっていくかどうか。これは私としてはだいぶ楽観的に考えています。たとえば千年前のバラバラ具合と現在とでは、現在のほうが明らかに「ひとつの世界」に近付いているでしょう。これは70年前と比べたときでさえそうです。具体例をあげますと、北朝鮮は人権なんてまるで認めていない国家のように見えますし、現実にかなりの程度にそうなんでしょうが、でも対外的には「ちゃんと人権保障しています」と言わざるをえないわけですよね。この「北朝鮮でさえ対外的には取り繕わざるをえない」というあたりに人権の規範的な強さ、そしてその内容の収斂が見て取れるのではないかと思います。似たような例は他の権威的国家でもみられるでしょう。
.こうした収斂がなぜ生じているかというと、ひとつには国連その他の国際機関ががんばっているから、というのもありますし、もうひとつには、主に経済面でのグローバリゼーションとか情報化といったものがあげられます。グローバルスタンダードな人権をおおむね共通のものとして前提としているからこそ、国内・国外を問わず十分に経済合理的な行動が可能になる、という面は確かにあります。小さなコミュニティで完結していた時代から離れ、グローバル経済のなかで合理的に振る舞おうと思えば思うほど、スタンダードな人権規範を受け入れざるをえない、ということです。これについては中国やシンガポールの「開発独裁」といった強力な反例がありますし、現代のテロリズムの蔓延を前にしてそんなことがいえるのか、というのも大きな問題です。しかしそうはいっても、グローバリゼーション下の経済的合理性による「規範的」同調圧力は、長い目で見れば人権規範を均一化する方向ではたらくと私は考えています。「開発独裁」的なものは経済成長が続いている限りの脆弱なものでありますし、頻発するテロリズムなどは――文化的・宗教的対立の存在を否定すべきではないものの、かといって過度に強調すべきでもなく――むしろ、富の分布の世界的不均衡によって加速されている反動という面が強いのではないかというわけです。

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