就業規則を公開していない会社は多いですが、原理的には公表していない法に法としての意味はありませんよね?法は不知を許さずという諺もありますが、逆から言うと適用される当事者にとって法は知ることが可能な状態でなければならないということなのではないかと思ったのですが。

.就業規則だと、たとえば本人が知りようがなかった規則の違反で何か不利益処分を食らったとかなると、これはさすがに労働法的にまずいですね。とはいっても、解雇ぐらいになれば争えますが、そこまでいかない無形の不利益みたいなものはいろいろあるわけで、それは上司の気分次第みたいなところはたくさんあるでしょう。細かい規則をあえて定めないで、「言わなくても当然わかるよな?」という空気で規律訓練するのも人をコントロールする手法としては当然あるわけで、もちろんなんだかイヤなものですが、現実にそれを全部なくすのもなかなかという。
.それを法の問題に一般化するとどうなるか。現実の私たちは自分に適用される法をすべて知っているわけではもちろんないし、公表されている法であっても個別具体的な適用場面では裁判官の解釈が入ります。裁判官の頭の中までは知り得ない以上、原理的には何も公表されていない、みたいなことさえ言えるかもしれない――そうすると「すべての法は事後法である」というすごい話になってくる。
.もちろん、それは極端な言い方で、現実には程度問題であるし、できるだけ当事者の予測可能性が保障できるように、公開性その他、フラー的な法の内在道徳みたいなものがしっかり満たされていることが「望ましい」と規範的にいうことはできます。しかし、規範的にそういえるということは、記述的にはそうでもない法実践がたくさんあるということでもあり、どちらがよいのかは必ずしも自明ではありません。制定法中心の国で、しかも刑事に関わる法についてはそういった規範的要請は強くはたらく、というのはある程度いえそうですけど、そうはいってもそれもそこまで普遍的なものであるわけではない。
.判例法中心の国だったら、一般人が知り得ない裁判官の頭の中だけにある秘密の何かも立派に法になってしまうし、法というのはそもそもあらかじめ公布するとかそういうものじゃなくて、個別具体的な紛争の解決を通じて「発見」されていくものだという考え方も根強い。というか、歴史的にはおそらくそっちの思考のほうがずっと長かったはず。「誰が」裁定するかという手続きがなんとなく決まっていれば、内容が事前によくわからなくともそんなに困ったことではない、という法実践は現在でも世界中にいくらでもあります(日本でも民事だったらかなりの程度にそうでしょう)。もちろん、それだったら自由に行動できなくていろいろ困る、というのはそうなんですが、そういった考え方自体はそこまで普遍的ではないし、必ずしも前時代の因習的なものとして克服されるべき考え方ともいえず(たとえば「訴訟を通じた法発展」みたいなものをどう捉えるか?)、まあなんかそんな簡単な話でもないわけです。
.というわけで、法思想史の授業では、とりあえずそういう制定法中心(特に刑事法モデル)の思い込みを歴史的に相対化していくことが第一の目的になってきます。

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