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第5章の冒頭に紐づく注釈で、「テトリス」などは、「二つの意味論があるビデオゲーム」の対象外としています。この主張を支持する場合、「虚構の何も指示しないが、メカニクス上の意味をかろうじて扱えるようなバグデータ」をどう説明しようか考えあぐねました。ex. 『ファイナルファンタジーV』におけるバグアイテムとしての「えふえふ」。これは〈F: えふえふ(=∅)〉〈G: えふえふ=バグアイテム〉。

ふつうにゲーム的内容しかないということでいいと思います(さらにバグの場合は非公式のゲーム的内容でしょう)。ただFF(RPG一般がそうですが)のようにリッチな虚構世界を持つ場合は、一見純粋なゲームメカニクスの要素でもむりやり虚構的内容を読み出そうとがんばる解釈を導きやすいかもしれません。本の立場だと、虚構世界上に何があるかは基本的に作者の意図または解釈の慣習に依存するので、そういうむりやりな解釈であってもそれが標準になってしまえば、えふえふなる存在者が虚構世界にあらわれることもあるかもしれません。

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『マリオメーカー』というゲームが、松永2018の議論においてどのような整理が可能か、迷っています。 - (1)「つくる」モードと「遊ぶ」モードが同じゲーム作品として考えられるのか、 - (2)それとも「つくる」モードと「遊ぶ」モードが別々のゲーム作品として考えられるのか。 これは、「ディスプレイ」の意味作用を考えるという立場から出発する場合、上記のどちらかの立場を選ぶことになるかと考えました。(2) の立場だとクリアですが、(1) の場合は色々と複雑な議論を要請するような気がしています。

何を(どこまでを)ある*ひとつの*作品と見なすかというトピックは芸術の哲学のなかで「芸術作品の存在論」と呼ばれる分野に属しますが、『ビデオゲームの美学』ではその話題を意識的に避けています。その問いに対して本(とくに3章)から直接引き出せる主張は、わたしたちの評価実践のなかで評価の単位(芸術的価値の帰属先)がどのように確立しているかによります、というくらいかもしれません。
作品の存在論から離れた話をすると、単純に『スーパーマリオメーカー』のつくるモードとあそぶモードとではゲームプレイ(楽しさ)の質がだいぶちがうということを否定する人はいないと思います(前者を「ゲームプレイ」と呼ぶかどうかは異論があるかもしれませんが)。ただ両モードがなんらかの相互依存関係にあることはたしかであり、それがどんな関係なのかを考えるにはおっしゃるように複雑な議論が必要になると思います。
その手の議論に関して本の枠組み(とくに7章)から言えることは、いくつかあるような気はします(とくに深く考えていません)。たとえば、つくるモードは明らかに行為のデザインなわけですが、その観点からすると、「つくるモードが面白い」というのは、行為のデザインそれ自体がゲーム行為になっているということだ(そして、『マリオメーカー』のつくるモードは、行為のデザインという行為それ自体をゲーム行為としてデザインしているものとして評価できる)などと言えるかもしれません。あるいは、つくるモードはたしかに行為のデザインではあるが、コアメカニクスは出来合いのものであり、それゆえかなり制約された行為のデザインしかできない(せいぜい物の配置などの空間的な行為デザインしかできない)という話もできるかもしれません。もちろんメカニクスが出来合いであるということによって、逆にその制約を利用した行為のデザインが可能になっている側面もあるかもしれません。たとえば、初見殺しとかプレイヤーの裏をかくとかいうタイプの面作りは、従来のマリオシリーズに対するプレイヤーの先入見を利用した信念のデザイン(正確には信念を裏切るデザイン)の一種ではあると思います。
本を離れて考えると、『マリオメーカー』の評価は、面を作って公開して遊んでもらってそのプレイ動画がアップされてその動画が鑑賞される、という受容プロセスまで含めて考えたほうがいい作品だろうと思います。『マリオメーカー』は明らかにそういう受容文化があることを想定して作られた作品であり、またその文化が求めるものに合致しているからこそ高評価されたんじゃないでしょうか。多数の改造レベルが作られた『スーパーマリオワールド』もまたプレイ動画が鑑賞の対象になっていたわけですが、当然ながら制作当時にはそういう文化はないので、その点で『マリオワールド』を『マリオメーカー』と同じように評価することはできないだろうと思います。
レベルコンストラクションのモードがあるビデオゲーム作品は古くからありますが、『マリオメーカー』もある程度まではその伝統の枠内で理解できるだろうと思います。個人的な考えとしては、ツクールシリーズなども含めた「ゲーム制作キット」みたいなもの(ゲーム開発の楽しい部分がカジュアルにパッケージ化されたもの)の一種として理解するのが自然かなと思います。

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『ビデオゲームの美学』p.82 について質問です。 >というのも、インタラクティブ性は、統語論と意味論の双方に関わるものであると同時に、両者の区別の重要性を示すものだからである。 とあります。ここでいう「両者の区別の重要性を示す」ことを明らかにした箇所がどのあたりにあるか、うまく読み取れませんでした。「ディスプレイの統語論と相互作用している」「ゲームメカニクス(の意味論、と後の章で呼ぶもの)とも相互作用している」という指摘はもっともなのですが、「……だから、インタラクティブ性は両者の区別の重要性を示すものなのだ!」とまで言っている箇所が、見当たらなかったように思います。

近い場所だとパックマンとFF3の図版があるあたりで、インタラクションの対象が画面だとは言えないということが明確に示されていると思います(いま手元に本がないのでページ数はわかりません)。
ちなみに統語論(に対する行為)とゲームメカニクス(に対する行為)の区別の必要性自体は本の全体を通していろんな仕方で示していると思いますが(わかりやすいところだと、6章の最後や9章の最後)、5章でインタラクティブ性を持ち出しているのはスムーズに次の章につなげるためという文章構成上の理由です。なのでインタラクティブ性が両者の区別の重要性を示すものであることは議論上たいして重要ではありません。

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「美的行為」というのが何なのかいまいち掴みきれていません。「美しい行為」とか「かっこいい行為」とかそういうもの(美的な性質を持つような行為)ではないのですよね?何か具体例をいくつか挙げてもらえると助かります。

はい、外から見て美しいとかかっこいいとかいうことではありません。取り立てて具体例を挙げるような特別なことではなく、あらゆるゲームのプレイのほとんどすべての場面に見いだせるもので、行為者が独特の感じを持つ(行為者にある種のひっかかりを感じさせる)行為です。なぜそれを「美的aesthetic」と形容するかは本文にある通りです。
いちおう例をあげると、将棋の指し手、テトリスのアクション、マリオのアクションなどなどなどです。身体的な動作だけでなく、戦略的な判断も含みます。ただ、どの例にそれを見いだすかは人によってちがうと思います(能力依存なので)。
例示で伝わりづらいとすれば、美的性質もそうなのですが、納得してもらうには感じを感じてもらうほかないからです(シブリーの知覚的証明の議論)。美的性質の場合はそれを指す言葉が比較的整備されているので、たとえば「"優美である"とか"けばけばしい"とか"バランスがとれている"という言葉が適用されるたぐいの性質だ」と言えばそれなりに伝わる例示になると思いますが(それでも伝わらない人には伝わりません)、美的行為の場合はその独特の感じを指す言葉があまり共有されていません。このへんも本文にある通りです。
これはゲームのプレイにかぎった話ではなく、多くの日常的な行為も美的行為の側面を持つと思います。言い換えると、日常的な事物がその事物に独特の「あの感じ」(美的性質)を持つのと同じように、たいていの行為はその行為に独特の「あの感じ」を持っていると思います。とはいえ、自己目的的でない行為の場合は、そういう側面に焦点があわせられる(そしてそれが価値づけされる)ことは少ないだろうと思います(少なくともそういう価値づけの実践は成り立っていない)。

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ビデオゲームの美学P294に「類似している必要があるのは、モデルとその表象内容である」とありますが、これは「『モデル』と『その表象内容』が似ている必要がある」ということではなくて、「『モデルとその表象内容』が『対象』と似ている必要がある」と言っていると理解したのですが、間違ってますでしょうか?

いえ、モデルと表象内容の類似です。表象内容と対象が一致しているかどうかは、真偽または写実性の問題であって、当の表象がモデル化であるかどうかの要件ではないという考えです。画像表象(絵)にも似たことが言えます。とはいえ、プロブレマティックな主張だとは思います。

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ビデオゲームの美学P62の娯楽形式としてのビデオゲームについて。「娯楽形式として扱うかぎり、その提示形式の本性-つまりナラデハ特徴-を見いだそうとすることは意味をなさないから」とありますが、そういう娯楽としての受容の仕方というのもありそうに思いました。芸術形式として扱う理由はよく理解できるのですが、娯楽形式として扱わない積極的な理由は特にないようにも感じたのですが、その点についてお考えをお聞かせください。

娯楽でも個人レベルでナラデハに注目する受容の仕方をすることはあると思いますが、そういう受容の仕方が文化レベルで慣習化されていることはないんじゃないでしょうか。また逆にそれが慣習化されているなら、その文化は芸術形式だと言って問題ないと思います。このへんは言葉づかいの問題ですが。本にも書いてある通り、芸術形式の外延を広げることについてはとくに抵抗ありません。
いずれにせよポイントは、受容の仕方が慣習化されていないかぎりは「本性」みたいなものは見いだせないというところにあります(その手の「本性」はすべてわれわれの受容実践が決めるという立場なので)。

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『ビデオゲームの美学』5章の図(10-3、10-4.p.p.260-261)に関する質問です。図では、ポーズからポーズ解除まで、セーブからロードまでのいずれについても、統語論的時間は止まっていないように見えます。前者については、静止しつつも、ディスプレイ上に映像は表示され続けているので、統語論的時間は止まっていないと言えるようにも思いますが、後者については、一般的に、モニターの前でゲームを遊ぶ行為そのものが中断され、電源も落されてスクリーン上には何も表示されていない状態になるが故に、ゲーム時間と共に、統語論的時間も止まっているのではないか。そのように思ったのですが、いかがでしょうか。

10章ですかね。統語論的時間は存在論的に実時間と同じであると考えた結果こうなっています(本書での時間の定義上、存在者の種類で時間軸の種類が決まるので)。統語論的空間との関係で言えば、おっしゃる通り画面が表示されている時間として、実時間とは区別して考えた方がよかったかもしれません。ちなみに、ヒッチェンズの「プレイング時間」と「エンジン時間」がその区別に相当するので、その区別を拾いたければ四層モデルになると思います。

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浅学ながら質問させていただきます。人間はビデオゲームに崇高の感情を抱くことがあるのでしょうか。美を感じる際に、偉大さを感じるというのは一つの要素だと思うのですが、ビデオゲームに崇高の感情を持つという場合がうまく想像できません。それともそもそもこのような考え方は間違っているのでしょうか。

単純に演出やストーリーで崇高さを感じることもあると思いますが、そういう例はつまらない(ナラデハではない)ので除外すると、やたら難しい場合に崇高さを感じることがあると思います。『Super Hexagon』のエンディング面(7面)を見たときは神々しさを感じました(すぐ死にましたが)。『Getting Over It』とかも上の方にいけたら崇高感あるだろうなと思ってます。

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質問です。原著 p. 258. にある 'The primary purpose...' の訳文について、「芸術の第一目的は、…」となっています。この一文が p. 256. 'The question what constitutes ...' の一文に呼応していること、そこでは具体的には芸術に顕著な記号作用が念頭におかれていること、そこから「芸術の」と訳されたのかなと推察いたしますが、'The primary' の 'The' は、直接には「直接の必要性を超えて記号を使う」ことを指しているようにおもわれます。あえて「芸術の」と訳されたのには、上記以外の、なにか特別の理由があったのでしょうか?

「イEトズ三」
ご指摘の通りですね。芸術の自己目的性というよりは認知(記号作用)一般の自己目的性を問題にしているところだと思います。
議論の流れは、芸術は何のためのものか(=美的価値とは何か)という問いに対して3つのよくある回答候補(実用性、遊び、コミュニケーション)が示され、そのそれぞれがより根本的なものである認知的価値によって説明できる(そして説明されるべき)というかたちになっています。この認知的価値は芸術だけにかぎったものではないので、「芸術の」という限定は不要だったと思いますし、「芸術にしかない種類の」というふうに読めるという意味ではミスリーディングですらあります。その意味で誤訳に近いものだと思います。
いちおう想定される「特別な理由」をお答えしておくと(覚えていないので想像です)、「その第一目的」という訳でお茶を濁すこともできたのですが、それだと訳の上での直前の文の主語「コミュニケーションそれ自体」の第一目的というふうに読めてしまうので、指示詞を避けて「芸術」を入れたのだと思います。

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ゲーム史の本が色々出ている感じですが、どれが最初の一冊によいってありますか。それぞれの本の癖ないし史観とかが気になっています。

関心や知識によってちがうのでなんとも言えないです。小山『日本デジタルゲーム産業史』は事実ベースで時系列を追って見ていくかんじで、基本的な知識を信頼できるかたちで得るには適していると思います。文化史というか受容史としてはさやわか『僕たちのゲーム史』が好きですが、ある程度作品を知ってないとぴんとこないかもしれません。マニアックな話が知りたいならゲームサイドシリーズなどが詳しいんじゃないでしょうか。あと本もいいですが、あそぶゲーム展のような展覧会にいってみるとゲームの歴史を実感できていいと思います。

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グッドマンの有限差別化のステートメントがピンときません。 定義だと、マークaが符号Xにも符号Yにも属さないならば、「aが符号Xに属さない、あるいは、aが符号Yに属さない」と確定可能であるとされています。(訳書p.159など) 用語解説を見ると、これはマークがどの符号に属すかを原理的に確定可能であるという条件だとされていますし、グッドマンもそういう扱いをしているようです。 しかし「mが符号Kに属する」と確定可能であることではなくて、どちらかに属さないということを確定可能だという、ある種遠まわりで弱い定式化になっています。なんでこんな定式化にしたんでしょうか。

at_akada
用語解説のほうが不適切というか言葉足らずなのだろうと思います。有限差別化の要件ではじきたいのは、たとえば有理数をすべて組み込むようなシステムです。「ある棒は、その長さを有理数ミリメートルに換算した数にもとづいて、有理数ごとに別々に用意された特定の符号に属する」というシステムを考えたとき、ある長さの棒がどの一つの符号に属するかは確定できないわけです(無限に細かくできるので)。音で言えば、周波数(有理数にまるめたもの)ごとに異なる音符が用意されているようなものです。こういうのを排除するために、まわりくどい定式化になっているんだと思います(原文のほうがおそらく多少わかりやすいです)。

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グッドマンは、科学と同様に、芸術も認識であるというのですが、芸術の場合、何についての認識なのでしょう。 科学や歴史の場合、認識とは、何らかの事実を知ることだと言えそうな気はするんですが、芸術の場合、認識の対象としての事実に相当するものが何なのかよくわかりませんでした。

at_akada
答えはpp.300-301のあたりかと思います。科学での認識の対象は必ずしも事実ではないという考えか、芸術も科学もそこでの認識は(広い意味での)事実を対象にするという考えのいずれかじゃないでしょうか。「いずれも世界の見方(を提示するもの)という点で同じ」みたいなことだろうと思います。

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少し違った観点の質問になるのですが、東アジアの書道、西アジア・ヨーロッパに伝わるカリグラフィは記号的意味と図象的表現形式を同時に備えていますが、こうした図象的な文字は、芸術の言語としては二重性を持ったものといえるでしょうか。

「二重性」という言い方が適切かはわかりませんが、スクリプトとしての特徴と絵としての特徴をあわせ持つといえるとは思います。カリグラフィについては、わずかながら言及があります(p.240)。

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先ほどのご回答、芸術の媒体性の問題というよりは、第5章p208 にある「一つのクラスが一意に決まる」というところに芸術の同一性と多様性の根拠があると読み取れましたが、いかがでしょうか。

ご質問の趣旨を把握する自信がないので、とりあえず無回答とさせてください。

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「芸術の言語」第4章p182-の「8 アナログとデジタル」はこの本の核心部の一つだと思いますが、概要p319にあるように、絵画やスケッチは稠密(アナログ)で、楽譜や設計図はデジタルというのは、デジタルからアナログが再現されるということに思え、興味深いのですが、設計図の代わりにアナログなスケッチが建築構想の準備段階で使われたり、デジタルな楽譜だけでは完全なアナログ演奏再現ができないなど、必ずしも固定的分類に収まらない(記号システムのパラメーターとしては流動可変的)と思われるのですが、いかがでしょうか。

「デジタルからアナログが再現される」という言い方はグッドマンの議論と用語法にしたがうかぎりはできません。建築にスケッチが使われることは本文で言及されています。楽譜が演奏のすべてを規定しない(というかむしろすべてを規定しないことにデジタルの意義がある)ことも本文に書かれています。

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「芸術の言語」第5章以下の要点は概要p.319に解説いただいているとおりの記号システム論ですが、芸術作品のあり方は音楽、美術、建築、文学作品でそれぞれ異なると本文でも述べられています。こうしたrepresentation(再現)における統語論や意味論上の多様さは、それぞれの芸術の媒体性の違い、つまり「芸術の言語」自体の媒体性の違いに基づくと考えてよいでしょうか。

グッドマンは基本的に媒体の特徴を問題にしませんし、媒体に何か本質を見いだすことは否定すると思います。以下細かい説明です。まず前提から。そこで「あり方」といわれているのは、芸術作品の同一性のあり方です。つまり「ひとつの作品」として同定される存在者の種類が諸芸術間で多様であるという話です。作品の同一性は、たとえば伝統的なクラシック音楽などの場合は記譜法によって確定しますが、それ以前に「(記譜法に)先行する分類」によってすでにだいたい決まっているというのがグッドマンの考えです。この「先行する分類」にもしかすると媒体性が関わることはあるかもしれませんが、グッドマンはそれについて何も述べていませんし、唯名論者としてたぶん否定します。

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芸術の言語 第1章のrepresentation(表現)の注に、depiction である旨が書かれていますが、depiction は書き手の認識や主観と捉えても差し支えないでしょうか。

ご質問のポイントを把握できているか自信ありませんが、"depiction"は基本的に(1) 絵や写真とそこに描かれているものの関係か、(2) 何かが描かれている絵や写真自体のいずれかを指します。その作用が働くには、ふつうに考えれば見る人の認知が関わるとは思いますし、画家や写真家の意図が関わると考える人もいます。あと、"representation"は本書の訳では"表現"ではないです。

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取り決め可能な帰結って、金銭などゲーム外で利用可能なインセンティブが必然的に伴うわけではないという理解でいいですか。またこの規則によって、オンラインカジノなどはゲームから除外されると考えても大丈夫でしょうか。

おおむね大丈夫だと思いますが、この概念のポイントはむしろ場合によってはそういう動機が伴っていてもいいというところにあります。遊びやゲームがそういう動機が伴わないものであるという昔ながらのよくある考えに対して、ちょっとした修正を加えているところにオリジナリティがあるわけです。「ゲームから除外」という強い言い方をしていいかはわかりませんが、ギャンブルは一般に取り決め可能な特徴を持たないとユールは考えていると思います。

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ハーフリアルではなくロペス辺りの話になるのですが、depiction という概念はデジタルゲームにも汎用的な用語に思うのですが、インベーダーやマリオのドット画などへのキャラクターへの感情移入などという点で、どう思われますか。

ドット絵も時代やジャンルでいろいろだと思います。感情移入(想像力がかきたてられる?)みたいなのはよくわかりませんが、古いJRPG的なドット絵は小林秀雄が当麻かなんかで書いてた能面の美みたいなのに近いとまえから思ってます。あとデザイン的にしゅっとしているところがすきです。

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創発的物語(emergent narrative、p.195)という言葉は、ゲーム展開という出来事をきっかけにプレイヤーが内的に作る世界や体験の物語、という解釈でよろしいでしょうか。

既存の議論では言葉の中身がいまいちはっきりしないというのが、まさにp.195の主張だと思います(そしてその状況はいまも変わってないと思います)。「player story」とか言われる場合の含意は、どっちかというと、プレイヤーが内的に作る(読み込む)物語というよりは、たまたま(デザイナーが意図せざるかたちで or あらかじめの筋書きがないかたちで)生まれちゃう物語というかんじだろうと思っています。p.103あたりも参考になるかも。

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