含まれるものとしてその語を使っています。仮に身体そのものは自然物だとしても身体の動きやその演出がartificialなものだと言うことにとくに抵抗は感じないですが、それはともかく微妙な用語法なのはおっしゃる通りなので、ビデ美では「提示形式」に変えています(外延も変わっていますが)。
.
.
「内容が酷い」「極めて問題がある」の内実がまったくわからないので、議論なり回答なりをご希望ならもう少しご説明いただけるでしょうか。「ヴァーチャルリアリティと潜在性をつなげる言説が多数ある」と言われても、だからなんですかという反応しか返せません(ブログではそういう言説が多数あるともないとも言っていないので)。勉強不足のご指摘であればありがとうございます。
任意の物語内容は解釈されるまでは(あるいは経験されるまでは)確定していないという立場を取ればおっしゃる通りです。とはいえ、作品の物語内容と個々の受容者の経験を区別するほうが常識的な立場なんじゃないでしょうか(「常識的」というのは「そういう立場のほうが実践に即しているはず」以上の主張ではないです)。もちろん、作品が固定的な物語内容を持つということを説明するには、意図主義なり内包された読者なり理想的鑑賞者なりの理論上のコストを引き受けることになりますが。どちらにせよ、この問題は芸術作品の解釈一般の話であって、環境ストーリーテリングならではの(もっと言うとビデオゲーム物語ならではの)話ではないと考えています。
環境ストーリーテリングは理論概念でしかないので、日記タイプを含めるべきかどうかは論者がどういうカテゴリーを必要としているかによると思いますが、どちらにしろ解釈の能動性の度合いが相対的に低いケースだとは言えるでしょうね。能動的な解釈の必要性(暗示性の高さ)を環境ストーリーテリングの重要な特徴と考えるなら、日記タイプは違うと言ってもいいかもしれません。
(続き)とはいえ、おっしゃることももっともだと思いました。仮に「『テトリス』や『パックマン』は芸術作品でない」と考えているにもかかわらずそれらをあえて例にしているのだとすれば、追加の説明がいくらか必要な気がします。なので、〈そうした説明ぬきにそれらを例として使うかぎりは、「それらは芸術作品である」のほうにコミットしていてしかるべきだ〉というご指摘であれば、たしかにそうかもしれないと思います。本の序章で書いている通り、具体例の選択基準は、ビデオゲームの古典である、先行するビデオゲーム研究で取り上げられている、論点を示す例としてわかりやすい、などいくつかありますが、あるビデオゲーム作品がそうした基準にフィットすることと、それが芸術作品であることとのあいだに、必然的なつながりがあるのかないのかという話なのかもしれません。そのつながりはとくにない(それゆえ芸術作品でなくてもそれらの基準に問題なくフィットしうるし、文句なしの芸術作品であってもそれらの基準に十分フィットしないことがある)と思っているのですが、その点の説明がもうちょっと必要なのかもしれないということです。そしてその説明の用意はさしあたりありません。なので、「『ビデオゲームの美学』に出てくるビデオゲーム作品の大半は芸術作品である」にひとまずコミットしておくべきなのかもしれません。ありがとうございます。
「デュシャンの便器ではなく公衆便所の便器を具体例にするようなもの」とのご指摘はたしかにクリティカルに聞こえますが、「便器が芸術形式だとして」という仮定を十分具体的に想像すればそれほど違和感はないのではないかと思います(想像しにくいですが)。便器ではなく映画のアナロジーで考えればより自然かなと思います。芸術形式の一種としての映画のナラデハ特徴を語るときに、たとえばゴダールではなくリュミエール兄弟やポチョムキンを(それらが芸術作品か否かにコミットせずに)例として持ち出すのはそれほど変ではないでしょう(それでもやはり違和感を感じられるかもしれませんが)。
個別のビデオゲーム作品が芸術作品かどうかの判断について積極的な主張はとくにありませんが(ようするに個人的にはどっちでもええがなというか、その判断をするのはわたしではなく文化と文化史だということです)、『テトリス』にしろ『パックマン』にしろそれを芸術作品だと言う人がいてもとくに反対しませんし、そう言いたい人が『ビデオゲームの美学』の理屈を使ってそう言ったとしてもとくに反対しません。
直接の動機を言うと、ビデオゲーム作品をまじめに鑑賞する文化の実態を(その他の諸文化との比較において)強調したかったというのが大きいです(ようするに批評実践が豊かにあるよということです)。哲学的な態度としては不純でしょうが、少なくとも『ビデオゲームの美学』は芸術作品の定義そのものについて戦っている本ではないので。
美学者的な立場でお答えすると、制度説の考えに大きな欠陥があるとは思えないというのがあります。Dickieの制度説だと制度の中身に限定をかけないので、すでに芸術制度と見なされている制度を追認することにしかならない(それゆえ、たとえば非西洋や"lowbrow"の正統的でない文化を芸術制度と認めることができない)という難点が指摘されますが、普通に制度の中身に限定かければ問題なかろうと思います(たとえば「芸術的な価値づけの実践である」というような)。Abellはそういう方向で制度説を擁護していますが、基本的にそれと同じ考えです。Abell論文の高田さんのレジュメ:http://at-akada.hatenablog.com/entry/20121021/1350838625
ちなみに、芸術定義論の他の立場(美的機能説、歴史説など)が間違っているという主張はしていません。それらの説をとったときに「ビデオゲームは芸術だ!」と言えるかどうかはとくに考えてないですが。Gautのクラスタ説を採用した場合の議論については、拙稿「ビデオゲームは芸術か?」やTavinor, The Art of Videogames(9章)を参照ください。