@zmzizm

まつ

「芸術の言語」第5章以下の要点は概要p.319に解説いただいているとおりの記号システム論ですが、芸術作品のあり方は音楽、美術、建築、文学作品でそれぞれ異なると本文でも述べられています。こうしたrepresentation(再現)における統語論や意味論上の多様さは、それぞれの芸術の媒体性の違い、つまり「芸術の言語」自体の媒体性の違いに基づくと考えてよいでしょうか。

グッドマンは基本的に媒体の特徴を問題にしませんし、媒体に何か本質を見いだすことは否定すると思います。以下細かい説明です。まず前提から。そこで「あり方」といわれているのは、芸術作品の同一性のあり方です。つまり「ひとつの作品」として同定される存在者の種類が諸芸術間で多様であるという話です。作品の同一性は、たとえば伝統的なクラシック音楽などの場合は記譜法によって確定しますが、それ以前に「(記譜法に)先行する分類」によってすでにだいたい決まっているというのがグッドマンの考えです。この「先行する分類」にもしかすると媒体性が関わることはあるかもしれませんが、グッドマンはそれについて何も述べていませんし、唯名論者としてたぶん否定します。

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松永さん、こんにちわ.いつもおもしろく読ませていただいています.さて、2012年の論文「ビデオゲームは芸術か」を読みました。そこで一つ疑問があります。人工物形式にはダンスや演劇なども含まれますか?人工物というワードに引っ張られて何か肉体(という自然物)は人工物に入らない気がしてしまっています.

含まれるものとしてその語を使っています。仮に身体そのものは自然物だとしても身体の動きやその演出がartificialなものだと言うことにとくに抵抗は感じないですが、それはともかく微妙な用語法なのはおっしゃる通りなので、ビデ美では「提示形式」に変えています(外延も変わっていますが)。

ご返答、有難うございます。「環境・オブジェクトは、グラフィックで描かれる場合もあれば、テキストで記述される場合もある」とあったので、ちょっと気になって、先のような質問をいたしました。過去の出来事そのものがテキストで記述されているモノ(=文書アイテム)を含む形でおっしゃっているわけではなく、プレイヤーがプレイの過程で出会う文字通りの「環境・オブジェクト」がテキストで記述されている場合もある(テキスト系アドベンチャーゲームやノベルゲームなど)ということですね。理解しました。

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ご返答、有難うございます。「任意の物語内容は解釈されるまでは(あるいは経験されるまでは)確定していない」と考えたというよりは、環境ストーリーテリングの場合、物語言説(=プレイの過程で出会う環境やオブジェクト)そのものがプレイごとに異なるはずなので、そこから引き出される物語内容も非固定的になるのではないか、と考えた故に(受容した物語言説以上の物語内容は引き出せないはずなので)、先のような質問をいたしました。「個々の受容者の経験」と区別された、作品が可能性として有する物語内容に焦点を当てるならば、確かに、環境ストーリーテリングにおいても、物語内容は固定的と言えると思います。

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VRの哲学と題されたブログを拝見したのですが、内容があまりにも酷いのでこちらで指摘いたします。まず、チャーマーズの論文はヴャーチャルの定義を恣意的に行っており、極めて問題があります。さらに、ヴァーチャルリアリティと潜在性をつなげる言説は多数あります。少なくともマイケル・ハイムやフィリップ・ケオー、ピエール・レビィといった哲学者の著作を読むべきです。

「内容が酷い」「極めて問題がある」の内実がまったくわからないので、議論なり回答なりをご希望ならもう少しご説明いただけるでしょうか。「ヴァーチャルリアリティと潜在性をつなげる言説が多数ある」と言われても、だからなんですかという反応しか返せません(ブログではそういう言説が多数あるともないとも言っていないので)。勉強不足のご指摘であればありがとうございます。

環境ストーリーテリングの物語内容は、分岐型のようにプレイごとに物語内容(=過去に起きた出来事そのもの)が変化するタイプとの比較において言えば、確かに一つに固定されていますが、その固定性はプレイヤーが環境ストーリーテリング的な物語言説を全て取得した理想状態を想定した場合においてのみ言えることのように思います。実際は、プレイヤーが取得する物語言説は(取得する量という面で)非固定的なわけで、とすれば、環境ストーリーテリングでは、物語内容も(プレイに応じて)非固定的となる、と言えるようにも思うのですが、いかがでしょう。

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任意の物語内容は解釈されるまでは(あるいは経験されるまでは)確定していないという立場を取ればおっしゃる通りです。とはいえ、作品の物語内容と個々の受容者の経験を区別するほうが常識的な立場なんじゃないでしょうか(「常識的」というのは「そういう立場のほうが実践に即しているはず」以上の主張ではないです)。もちろん、作品が固定的な物語内容を持つということを説明するには、意図主義なり内包された読者なり理想的鑑賞者なりの理論上のコストを引き受けることになりますが。どちらにせよ、この問題は芸術作品の解釈一般の話であって、環境ストーリーテリングならではの(もっと言うとビデオゲーム物語ならではの)話ではないと考えています。

環境ストーリーテリングの手法において特定の物語内容を伝える媒介となる「環境とそこに配置されたオブジェクト」に中に、文書アイテム的なモノ(過去の出来事が示された日記など)は含まれますか。プレイの任意のタイミングで取得され、互いに関連づけられることで、その世界で過去に起きた一連のまとまった出来事(=物語内容)を復元していくことが可能となる断片的な情報(=物語言説)という点では同じタイプの情報だと思うのですが、文章アイテムの場合、たとえ断片的なものであっても、言語によって出来事が明示的・直接的に語られているという点で、環境ストーリーテリングとは区別されることになるのでしょうか。

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環境ストーリーテリングは理論概念でしかないので、日記タイプを含めるべきかどうかは論者がどういうカテゴリーを必要としているかによると思いますが、どちらにしろ解釈の能動性の度合いが相対的に低いケースだとは言えるでしょうね。能動的な解釈の必要性(暗示性の高さ)を環境ストーリーテリングの重要な特徴と考えるなら、日記タイプは違うと言ってもいいかもしれません。

い、インディゲームをどうして主に具体例として挙げないんだろう・・・という疑問が浮かんだので、上のような質問をさせていただきました。(私はゲーム研究者ではない平凡な大学生ですが、いつもインスピレーションをいただいています。ありがとうございます。)

(続き)とはいえ、おっしゃることももっともだと思いました。仮に「『テトリス』や『パックマン』は芸術作品でない」と考えているにもかかわらずそれらをあえて例にしているのだとすれば、追加の説明がいくらか必要な気がします。なので、〈そうした説明ぬきにそれらを例として使うかぎりは、「それらは芸術作品である」のほうにコミットしていてしかるべきだ〉というご指摘であれば、たしかにそうかもしれないと思います。本の序章で書いている通り、具体例の選択基準は、ビデオゲームの古典である、先行するビデオゲーム研究で取り上げられている、論点を示す例としてわかりやすい、などいくつかありますが、あるビデオゲーム作品がそうした基準にフィットすることと、それが芸術作品であることとのあいだに、必然的なつながりがあるのかないのかという話なのかもしれません。そのつながりはとくにない(それゆえ芸術作品でなくてもそれらの基準に問題なくフィットしうるし、文句なしの芸術作品であってもそれらの基準に十分フィットしないことがある)と思っているのですが、その点の説明がもうちょっと必要なのかもしれないということです。そしてその説明の用意はさしあたりありません。なので、「『ビデオゲームの美学』に出てくるビデオゲーム作品の大半は芸術作品である」にひとまずコミットしておくべきなのかもしれません。ありがとうございます。

返答ありがとうございます. 例えばゴートのクラスタ定義を採用した時、10項目(あるいは最後2つを除いた8項目)にテトリスは個人的には全部該当しない気がしました.(個人の意見なんて知らんがなって感じだと思いますすみません。)でももし松永さん自身が『パックマン』も『テトリス』も芸術作品と考えていないのだとしたら、どうして芸術作品とは思わない(あるいは微妙な)例を(『ビデオゲームの美学』で)具体例としてピックアップしたのか、少し違和感を感じました。(便器が芸術形式だとして、デュシャンの便器を具体例にするんでなくて、近所の公園の公衆便所の便器を具体例にするような感じです・・・要するに例として芸術性の高

「デュシャンの便器ではなく公衆便所の便器を具体例にするようなもの」とのご指摘はたしかにクリティカルに聞こえますが、「便器が芸術形式だとして」という仮定を十分具体的に想像すればそれほど違和感はないのではないかと思います(想像しにくいですが)。便器ではなく映画のアナロジーで考えればより自然かなと思います。芸術形式の一種としての映画のナラデハ特徴を語るときに、たとえばゴダールではなくリュミエール兄弟やポチョムキンを(それらが芸術作品か否かにコミットせずに)例として持ち出すのはそれほど変ではないでしょう(それでもやはり違和感を感じられるかもしれませんが)。

松永さん、『ビデオゲームの美学』もクラスタ定義の論文も「ビデオゲームは芸術か」の論文も非常におもしろく読ませていただきました。ありがとうございます。その上で質問です。松永さんはビデオゲーム作品「パックマン」も「テトリス」も芸術「作品」だと思いますか?

個別のビデオゲーム作品が芸術作品かどうかの判断について積極的な主張はとくにありませんが(ようするに個人的にはどっちでもええがなというか、その判断をするのはわたしではなく文化と文化史だということです)、『テトリス』にしろ『パックマン』にしろそれを芸術作品だと言う人がいてもとくに反対しませんし、そう言いたい人が『ビデオゲームの美学』の理屈を使ってそう言ったとしてもとくに反対しません。

分析美学入門の5章、芸術の定義については読みました。書籍:ビデオゲームの美学の第3章3節で、制度説に似た立場を取られていますが、結局どうして制度説を採用したのですか。

直接の動機を言うと、ビデオゲーム作品をまじめに鑑賞する文化の実態を(その他の諸文化との比較において)強調したかったというのが大きいです(ようするに批評実践が豊かにあるよということです)。哲学的な態度としては不純でしょうが、少なくとも『ビデオゲームの美学』は芸術作品の定義そのものについて戦っている本ではないので。
美学者的な立場でお答えすると、制度説の考えに大きな欠陥があるとは思えないというのがあります。Dickieの制度説だと制度の中身に限定をかけないので、すでに芸術制度と見なされている制度を追認することにしかならない(それゆえ、たとえば非西洋や"lowbrow"の正統的でない文化を芸術制度と認めることができない)という難点が指摘されますが、普通に制度の中身に限定かければ問題なかろうと思います(たとえば「芸術的な価値づけの実践である」というような)。Abellはそういう方向で制度説を擁護していますが、基本的にそれと同じ考えです。Abell論文の高田さんのレジュメ:http://at-akada.hatenablog.com/entry/20121021/1350838625
ちなみに、芸術定義論の他の立場(美的機能説、歴史説など)が間違っているという主張はしていません。それらの説をとったときに「ビデオゲームは芸術だ!」と言えるかどうかはとくに考えてないですが。Gautのクラスタ説を採用した場合の議論については、拙稿「ビデオゲームは芸術か?」やTavinor, The Art of Videogames(9章)を参照ください。

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