編集部から流れてくる本にラベルだかレッテルだかを貼り付けてファクシミリで送り返すだけの簡単な商売です。うらやましい。
クワインの主成分は毒舌です。論理学も認識論も全て毒舌を発揮するための口実にすぎません。
その通りですよ?
そうですね、以下のような問題点があります
①まず、数学について、2+2=4は真ですが、それに対応する「世界の真実」ってなんですか?他にも「AならばA」のような論理的な真理についても同様の疑問が出てきます。
②次に「この文は真である」という文、世界の何かについて語っているように見えませんがどうしましょうか。
③というか、そもそも、世界ってなんですか?人間とは独立に客観的に外部世界が実在するって、論証するのは大変だと思うんですよ。これまで誰も成功していない。文の真偽を説明するために、そんなたいそうな前提を要求するのは、やりすぎじゃないですか。
磨く自分がある者は幸いである。そのうち摩耗するだろう。
ポストモダン思想に限ってお話をしましょう。甘いです。あなたは、純文学の人が「ラノベって書くの楽そうだね?」と思うのと同じ間違いを犯しています。
多くの厳密で実証的な学問(社会学の実証的な部分もここに含まれます)の場合、業績を上げるためには貧しい才能で十分です。資料を丹念に読み込み、論理的に厳密に思考し、批判を考慮しながら建設的な議論をして、明日の学問の礎を築く。しかし、ポストモダン思想の場合は、そういう王道がありません。従って、ラノベで売り上げ一位をとるような、「何か」が必要なのです。
ポストモダン思想もラノベも、もしかしたら、厳密な楽としての学問よりは、茶道や華道のような、芸事の「道」(art)として考えた方がいいのかもしれません。少なくとも、そこらの素人がカルチャーセンターで倣うぐらいなら思いつきでいいのでしょうが、「道」の中で評価されるためには、その道の過去の有名な実践を学び、それにちょっとスパイスを振りかけることが必要でしょう。ポストモダン思想の場合、デリダやラカンや柄谷行人やちば先生らの思いつきに忠実に、少しだけテイストを替える(しかしその変更部分は「アクチュアリテ」が求められる)必要があるのです。先行者が非科学的でしたから、いまさら科学的になるわけにはいきません。
大枠は保守的に、提示は革新的に、守破離。というわけで、結局ポストモダン思想であっても、思いつきを垂れ流して言いワケではなく、彼らは彼らで大変なんです。その彼らに科学的正しさとか求めるのは酷でしょう。彼らは崖に向かってチキンレースをしているだけなので、我々外野は、彼らがコースを踏み外して厳密な学に迷惑をかけさせないように監視し続けていれば、それでいいと思います。
えー、そこは「考えるな、見よ!」でしょう。「5時15分の電車でやって来た神」的に。
そうですね、以下の三つですね。
①どういう仕組みで、発話された「望み」の文字通りの意味から、暗黙的な文化的社会的文脈等を加味して「望み事」の意味内容を確定しているのかを教えて欲しい
②もし「願いを100個かなえて欲しい」と言ったら、どういう規則でそれをはじくのかを教えて欲しい
③もし「この願いを叶えないで欲しい」と言ったら、どういう処理でその願いをはじくのかを教えて欲しい
第二次大戦の独ソ線、1942年のスターリングラード戦の結果、ドイツ軍は大打撃を受けました。ソ連軍指導部は「コレで勝てる」と思ったのでしょうか、1942年の冬期攻勢のときに「あまりに急激に多くの事を一挙にやろうとし」た結果、「このような性急さのために、立案、部隊集結、支援砲撃、そして特に兵站に支障を来し」、1943年のマンシュタイン将軍によるドイツ軍の反攻作戦で大打撃を受けます。その結果、最終的に大部分のソ連高級軍人は「これまでのような『一気にカタをつけるような攻勢』ではなく、もっと穏やかで将来のためになる現実的な目標を据えるべきだ、と言うことに気がついた」。
「穏やかで将来のためになる現実的な目標」。戦争に勝つためには、日々の仕事をやりくりしつつ、穏やかで将来のためになる現実的な目標を地道にクリアしていくしかないのではないかと思います。
大変つまらないコメントで申し訳ないのですが、世の中、何事も投資対効果次第です。人脈は、もちろんあればあるほど有用ですが、一方で維持するにはコストがかかります。維持できないコストを要する人脈は、1980年代のソ連の核戦力のようなもので、マイナスの効果しか生みません。しかし、一方で、ある程度の人間関係は、何をするにも必須です。
なので、これからは「自分に必要な人間関係はどれくらいか」「自分に維持できる人間関係はどの辺までか」の二点を推定し、切るべき所は切り、維持するべきところは頑張ることが必要かと思います。