ナザレのイエスは、マリアがヨセフとの婚姻前に身籠った子なので、おそらく幼年期は周囲から不義の子と見做されて厳しい悪意の視線を浴びていたと思います。そして全き義人であったヨセフが律法の存在にも関わらず、彼の霊の力でマリアを受け入れた事、イエスが最期に「父よ」と叫んだ事を考えると、イエスが弱者に限りない愛を注いだことと、金持ちと律法を敵視していた事が良く理解できるように思います。おそらくキリスト教の愛はヨセフの霊に宿ったものがイエスから全世界に広まったと考えるべきだと思いますが、どうお考えになりますか?
おもしろい話題です。ヨセフは正しい人で、マリアは祝福された人であったということから、彼らの直近の家族もまた敬虔だったのではないかと想像できます。実際、マリアの親戚で洗礼のヨハネの母親であるエリザベスと彼女の夫は二人とも「神のみまえに正しい人であった」と書かれていますし(ルカ1:6)、ヨハネが生まれた時には、神がエリザベスに大きなあわれみをかけたということで、近所の人や親類は共々に喜び合ったとあります(ルカ1:58)。よってイエスに関しても、マリアとヨセフは、少なくとも近しい親族からは拒絶や否定はされなかったかもしれません。しかし、イエスが私生児の誹りを多くの人から受けたことも確かでしょう(たとえばヨハネ8:41)。
ヨセフがマリアを受け入れたのは、霊の力ともいえるでしょうが、同時に、彼は主が処女から生まれるということが予言されていたこと(イザヤ7:14)も知っていたはずですし、またマリアが精霊によって身ごもったことを知って彼女との婚約を解消しようと思っていた時に、夢の中で神の使いに心配するなと言われています。
イエスが最期に「父よ」といったのはルカ23:46だと思いますが、ここでの「父」はヨセフではなく神のことを指していると考えるのが自然ですし正当だと思います。また、イエスが金持ちを「敵視」したというのは、お金(この世界のもの)と神様と両方に仕えることはできず、この二つでは後者が絶対的に優先されるべきだという考えからではないでしょうか。さらに、イエスが律法を敵視していたというのも、律法を遵守することで人間が犠牲になるという本末転倒状態を正そうとしたという意味でしょう(マタイ5:17、マルコ2:27)。
というわけで、イエスが何かを「敵視」したのは彼の出生に関する悪意の視線への反応だったとか、またイエスの愛がヨセフから受け継がれたものであるとかいうのは、やや誤解を招く可能性のある表現かと思います。イエスは彼に向けられた最も激しい悪意も赦したわけですし、またキリスト教の教えに沿うなら、すべての愛は愛そのものである神から来る(一ヨハネ4:7-8)と言うべきだと思います。
ヨセフがマリアを受け入れたのは、霊の力ともいえるでしょうが、同時に、彼は主が処女から生まれるということが予言されていたこと(イザヤ7:14)も知っていたはずですし、またマリアが精霊によって身ごもったことを知って彼女との婚約を解消しようと思っていた時に、夢の中で神の使いに心配するなと言われています。
イエスが最期に「父よ」といったのはルカ23:46だと思いますが、ここでの「父」はヨセフではなく神のことを指していると考えるのが自然ですし正当だと思います。また、イエスが金持ちを「敵視」したというのは、お金(この世界のもの)と神様と両方に仕えることはできず、この二つでは後者が絶対的に優先されるべきだという考えからではないでしょうか。さらに、イエスが律法を敵視していたというのも、律法を遵守することで人間が犠牲になるという本末転倒状態を正そうとしたという意味でしょう(マタイ5:17、マルコ2:27)。
というわけで、イエスが何かを「敵視」したのは彼の出生に関する悪意の視線への反応だったとか、またイエスの愛がヨセフから受け継がれたものであるとかいうのは、やや誤解を招く可能性のある表現かと思います。イエスは彼に向けられた最も激しい悪意も赦したわけですし、またキリスト教の教えに沿うなら、すべての愛は愛そのものである神から来る(一ヨハネ4:7-8)と言うべきだと思います。