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Yuuki Ohta

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日本で行為論の研究をするのは難しいのでしょうか?

日本の研究環境についてほとんど何も知らないのでなんともいえませんが、哲学の他の分野に比べて特に行為論を研究することが日本では難しいということはないのではないかと思います。主に英語圏で英語で盛んに行われている研究をしようと思えば、単に言語的に研究するのがしんどいかもしれないことの他に、学会が近くで行われないとか、同じ領域を研究する仲間が少ないとか、情報が回ってくるのが遅いとか、いろいろ困難はあると思いますが、これらは行為論に限ったことではありませんし、またたとえばアメリカのすごく田舎の大学にいたとしても同じことでしょう。

『純粋理性批判』を読む価値が今でもあるのはなぜだと思いますか?

理由はたくさんあると思います。まず哲学史的な価値があります。僕の先生の使うイメージを借用すると、カントの仕事、特に『純粋理性批判』は、哲学の、特に形而上学の歴史を「X」という文字に見立てた時、
2本の線が交わる結節点——それ以前にあったものすべてがそこに収束し、それ以降にあるものがすべてそこから生まれ出るような決定的な点——にあたるようなものなのです。特に近代の西洋の哲学史では、カント以前の仕事もカント以降の仕事も、カントの仕事を参照点として理解される(べき)部分は非常に大きいと思います。
このことはまた、カントは『純粋理性批判』において、どんな時代に哲学するにせよいつでも極めて重大であるような問いをいくつも立て、しかも極めて独創的な想像力、妥協しない知的良心、そして広く深い見識をもってそれらと格闘したということを意味します。ここで言う「問い」とは例えば、何かを経験すること、認知することはどういうことか、そこには人間の持つどんな力が働いていているか、その働きはどのような原理に基づくか、そもそもこうした問いはどういう問いで、それを問うということはどういうことか、これらの問いに哲学/理性/人間は果たしてどこまで答えることができるのか、答えられる問いと答えられない問いの間に境界線を引くことはできるか…などです。哲学とは「考えることについて考えること[thinking about thinking]」であると言った哲学者がいますが、そうだとすれば、『純粋理性批判』はとびきりに優れた哲学の仕事そのものであり、哲学することに価値がある限りそれを読むことにも価値があるといえるでしょう。

ユーキさんのニコ生配信でときどき(しかし繰り返し)聞く名前がいくつかありますが、実際に会ったことのあるご友人ですか?それともNet上だけのご関係ですか?

ニコ生の配信で僕が度々言及する人というと、京ニャさん、嗣瑞(つぐみ)さん、オルヴォ(慈悲男)さん、といったあたりだと思います。元々はニコ生を通じて知り合ったのですが、比較的すぐオフラインでも会うような友人関係になりました。あと最近だと某スカイプ読書会に言及することもありますが、この会のメンバではオフラインでお会いしたことのない人が何人もいます。これは僕がここ3〜4年まとまった時間をとって日本に帰国できていないからで、次回の帰国の際にはぜひオフラインでも会いたいなと思っています。

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行為論の古典を教えてください

何をもって「古典」とするのか難しいですが、行為論の中心的問題に関わる議論がある程度以上の長さでまとまっている西洋哲学のテクストで特に重要なものを、僕の個人的な好みも存分に含ませて数点あげます。アリストテレス『自然学』(特に第2、3、5巻)、『デ・アニマ』(第2、3巻)、『ニコマコス倫理学』(第3巻1〜5章と第5、6巻)、アクィナス『神学大全』Ia, qq. 75–89とIaIIae, qq. 1–67、ライル『心の概念』、ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』、アンスコム『Intention』、ケニー『Action, Emotion and Will』、フォン・ウリクト『Norm and Action』、デイヴィッドソン『Essays on Actions and Events』、リクール『Oneself as Another[Soi-même comme un autre]』。(この他、近代にもデカルト、マルブランシュ、ホッブスからヒューム、カント、リード、ベンサムなどまで重要な仕事はたくさんありますが、特に行為論に関わる部分を抜き出すのが難しいので除きました。)

UKでの文学での質問があったので気になったのですが、UKでは日本の小説(ジャンル問わず)や映画、アニメ(こちらもジャンル問わず)はどのように受容されてるのでしょうか

先の質問と同じく、僕自身は文学にものすごく疎いですし、エンタメ文化一般に対するアンテナも低いので、非常に漠然とした印象しかありませんが、たとえば現代の日本の小説は、村上春樹という大きな例外を除けば、盛んに英訳されているとは言えないと思います。一方、古典のステータスを持つ作品、たとえば源氏物語や夏目漱石、川端康成などの作品は海外古典として広くとは言えないでしょうがそれなりに読まれていると思います。映画も大体似たような状況ではないでしょうか。ジブリアニメはこちらでも人気で、映画館の上映もありますが、日本に入ってくるイギリス制作の映画の数に比べれば、イギリスに入ってくる日本制作の数はずっと少ないです。ただ、もちろん黒沢明や小津安二郎などは古典として知られていると思います。劇場版でない、つまりテレビシリーズのアニメはあまりこちらには輸入されていないのではないかという印象です。近年イギリスで最も観られた日本のアニメは『NARUTO』だと思いますが、これも一部のティーンを中心とした限定的な人気ではないでしょうか。

卒論はどんな感じで書きました?

1月20日書くことの終焉。いつ再開することができるのだろうか。
1月29日また書こうとしたが、ほとんど無益。
1月30日昔からの無能だ。ほんの10日書き物を中断しただけで既に打ち拉がれている。前にはまたしてもとてつもない骨折りが立ちはだかる。言ってみれば、飛び込んで、先に沈んでいくものより早く沈まなければいけない。
2月7日完全な行き詰まり。終わらない苦痛。
3月11日光陰矢の如し。また10日が経ち、何も完遂しなかった。でてこない。時折1ページかけても、続けられず、次の日はまた無力だ。

(カフカの日記からの抜粋)
こういう感じで。
卒論はどんな感じで書きました
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現代の分析哲学はプラトンやカントの哲学と本質的に違うものですか?

現代の日本のカレーは19世紀イギリスや紀元前数百年頃のインドのカレー(ないし後に「カレー」と呼ばれるようになる料理)と本質的に違うものでしょうか。まず、「本質的に違う」ということをどう理解するかによって答えが変わってくるだろうことがわかると思います。チリペッパーが使われるようになった時が本質的な転換点だとか、いやもっと決定的なのは小麦粉でとろみをつけるようになった時だとか、古代インドの郷土料理でも大きな地域差があったから歴史的転換点(だけ)を語るのはおかしいとか、そもそも「カレー」というのは西洋人が後につけた名前で…とか、いろいろな見方がでてくるでしょう。哲学でも同様です。また、「現代の分析哲学」といっても「現代の日本のカレー」と同じように実にいろいろな種類がありますから、一概にそれが昔のカレーと同じとか違うとかいうことは難しいでしょう。

悟性と理性はどう違いますか?

「悟性」も「理性」も哲学の歴史を通じていろいろな意味で使われてきた言葉で、二つの違いやその他の関係も様々に考えられてきました。どちらも専門用語化しているので、こういう意味で使うのが唯一正しいということはなく、語る人によって様々です。なので、悟性と理性とは端的にここが違う、とは言えません(「愛と恋はどう違うか」と聞かれれば、それは「愛」と「恋」をそれぞれどう理解するかによる、と答えるべきでしょう)。
たとえばカントの『純粋理性批判』だけをみても、彼自身、悟性も理性も様々に規定することができると認めています。悟性は判断を下す(ひとまとまりの思惟を構成する)力とも言えますし、認知において概念を積極的に供給する力ともいえます。理性は広い意味では言語を必要とするような抽象的思考を可能にしている力全体のことですし、狭い意味では推論の力です。よって、二つの違いもさまざまに言えます。悟性は可能な経験の条件下でのみ働く一方、理性はそのような制限をもたないとか、悟性は個別的な経験に対して構成的である一方、理性は経験の全体に対して統制的であるとか。いずれにせよ、カントのテクストをじっくり読まないとこうした区別の意味も重要さも理解できないと思います。
カント自身はあまり前面に押し出しませんでしたが比較的平易と思われる言い方をすると、悟性は文の構成要素、つまり単語をまとめて(文法的に意味を成す)一文一文をつくる力、理性はそうして作られた数々の文を理論的に整合性をもつ全体(文章)にまとめあげようとする力、という類比で考えて大きく間違っていないと思います。

現代行為論の最大の問題ってなんですか?

2010年に出版された手引書『A Companion to Philosophy of Action』(Wiley-Blackwell)は、4部構成全75章です。個別の哲学者を特集した哲学史的な章を除いても51章あります。それぞれの章で様々な行為論の問題が議論されているわけですが、この中で最大の問題はどれかと哲学者たちに聞いても、一つこれだというものは決められないと思います。行為の哲学は、形而上学、認識論、心の哲学、(メタ)倫理など他の哲学の領域の数々と部分的に重なっているような領域ですので、なおのこと「最大の問題」を決めるのは難しいでしょう。
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UKではどのような文学作品が読まれているのですか?

僕自身文学にものすごく疎いというのもありますが、いかんせん質問が大づかみすぎて「いろいろ」としか答えようがない気がします(日本でどのような文学作品が読まれているかと聞かれても「いろいろ」と答えると思います)。古典も、ミステリも、SFも、紀行も、エッセイも、詩も、戯曲も、児童文学も、海外(=イギリス以外の国の)文学も、大衆文学的なものも純文学的なものも…やっぱりいろいろです。最近のベストセラーなどは、Amazon.co.ukやWaterstones(大手書店)などのサイトからチェックできます。
ひとつ日本とイギリスの文学の違いをいえば、日本語が母語でないにも関わらず日本語で書く作家はあまりいませんが、英語が母語でないにも関わらず英語で書く作家(特に小説家)は多く、また最近でが高く評価される人が増えてきています。そういう作家の作品群はここ10年程度のトレンドの一つで、英語文学ならではと言えるかもしれません。参照:http://www.nytimes.com/2014/04/26/books/writing-in-english-novelists-find-inventive-new-voices.html?src=twrhp&_r=3

ゆーきさんは英語でつぶやく時と日本語でつぶやく時がありますが、どう使い分けているのか気になります。

特にルールのようなものを意識して使い分けているわけではありませんが、日本語のツイートを読む人向けと僕が思う話は日本語で、英語のツイートを読む人向けと僕が思う話は英語でつぶやいていると思います。よって、たとえば将棋や漫画・アニメの話題は基本的に日本語で、他方たとえば欧州サッカーやローカルな話題(大学関係のイヴェントやお店の話など)は基本的に英語でつぶやいていると思います。どちらの言語でもよいと思われる場合は、文字数制限なども考えますが、自然に言葉が浮かんできた方で書くことが多いと思います。

学部から海外で学ぼうと思ったのはなぜですか?

僕は東京の地元の公立の中学を卒業した後の夏にアメリカに渡ったので、海外で学び始めたのは高校から(アメリカの言い方でいうと10年生から)です。そうしようと思った理由は必ずしも積極的でなく、中学2年から3年の時にかけて、当時なりに自分の将来を漠然と考えた時、そのまま都内の高校に進学して、そのあとはどこか適当な大学に入って…というのはとても直線的で味気なくどうしても嫌なものに感じられた、ということがあります。便利な言い方をすれば、いわゆる中二病のようなものをこじらせていたということです。それで、なにかまったく違う進路を求めて悶々としたりしたのですが、たまたま縁と運が重なって高校留学という選択肢があったのです。

ウィトゲンシュタインって今でもカルト的人気をほこっているのですか?

カルト的(狂信的、熱狂的)な目線でヴィトゲンシュタインを見ている人が今日でもいるかといえば、そこかしこにいると思います(欧米と比べて日本に多いような気もしないでもありませんが、わかりません)。ヴィトゲンシュタインがそのような見方をされやすい哲学者かといえば、それもその通りだと思います。ただ、少なくとも大学で哲学を研究している人たちの中では、そういう見方をする人は少なくなる一方だと思います。ヴィトゲンシュタインが多くの問題について正しい答えを出していると信じている人でも、それがカルト的な独断とは限りません。それがいろいろ読んで考えて書いて議論して辿り着いた立場だということのほうが多いと思います。

ハルキスト?

「ハルキスト」を自称できるほど作品を読んでいないので、答えは「ノー」です。こちらの回答も参照ください:http://ask.fm/yuuki_with2us/answer/123870487627

ゆーきさんにとってStanley Cavellはどういう哲学者ですか?

特に英語圏では大きな影響を持ち続ける彼独特のヴィトゲンシュタイン・オースティン解釈はもちろん重要ですが、それと同等か、ともするとそれ以上に、哲学的思考を人間の思考がそれ自身に対して引き起こしてしまう、人間本性に由来しながらも近代に特徴的に顕在化するある種の危機と解して、狭い哲学の領域を大きく越えて文学や現代音楽や現代美術、さらにはハリウッド映画まで縦横無尽に語り続けた彼の著作は、20世紀後半になされた人文学の仕事で最も偉大で重要なものに数えられるといっても大げさではないと思います。ただ、僕のような無教養な人間には彼の著作を読むことは大変に難しいです。西洋の人文的な古典と教養の枠組みに深く精通し、それ自体をテーマにしているようなところもありますので、別の文化的背景をもってアプローチすると相当わかりにくい人と言えるかもしれません。ずっと少しづつ読み続ける哲学者であることは間違いないです。

最近はどんなことを研究してますか?

しばらくは博士論文で扱った話題、あるいはそれに近い話題をさらに煮詰めて発展させて短めの論文にまとめることが課題ですが、丁度今書こうとしているのは意図的行為についてです。意図的行為とそうでない行為、そして理由に基づく行為の関係、それから、意図と、信念や欲求などのいわゆる心的状態との関係、こうした関係をどのように理解するべきかという問題を考えています。

こんばんは。現在高校生なのですが、理系に進もうと思っています。ですが、哲学にもかなり興味関心を惹かれています。大学生になると理系は専門性が増した授業が増えると思っており、哲学は独学でやるしかないかな、と諦めています。質問は、「理系の大学生でも(大学の授業で)哲学を学ぶことが出来るのか」「哲学を独学する上で、コツは何か」の2点です。お手数お掛けすると思いますが、よろしくお願い致します。

丁寧な質問ありがとうございます。
僕自身は日本の大学に通ったことがないので、最初の質問に関しては日本の少し知り合いに聞いてみました。その人たちによると、一般的に、3年目以降、専門的な授業が多くなる前はどのような専攻でも一般教養として教えられている哲学の講義を受けることができ、また3年目以降でもそれぞれ授業を担当する先生と相談すれば専攻外の授業を聴講することは可能だということです。もちろん、大学によって事情は異なるでしょうし、時間のやりくりは工夫しないといけないと思います。「理系」の専攻でも数学の哲学や科学哲学などはカリキュラムに組み込むこともできるかもしれません。2年間理系のコースでやってみて、それでも哲学を専門的にやりたいと思えば、いわゆる「文転」という道もあります。
2つ目の質問ですが、僕自身は、基本的に、哲学を独りきりで(文献だけをたよりに)勉強することは非常に難しいと思います。一部の人が持っていると思われるイメージに反して、哲学は共同的な営みです。哲学的に重要なことや、もっと言えば意味を成すことを自分が良く考えたり書けたりしているかということを自分自身で判断するのは往々にして難しい。それに、文化的な営みとしての哲学にはなんといっても2500年以上の歴史がありますから、たとえば将棋の囲い、定跡や手筋のように、考え方、読み方、書き方のテクニックや道具立てといったものがある程度できています。こういうことをマスターするにはやはり大学のような教育環境で手ほどきを受けるのが最も効率的であるように思います。
それでも敢えて「コツ」というか心構えとして一つ知っていて損はないだろうということを書きますと、「哲学」と呼ばれるモノはとにかく深くて広大であるということです。なので、たとえ同じ問題や分野に関することでも、一冊手に取ってみた本がチンプンカンプンだったり、一つ取ってみた授業がつまらなかったり、一人話してみた哲学者が感じの悪い人だったりしたとしても、それで哲学全部を見切ったと思うのは早計だということです。哲学を学ぶのに遅過ぎるということはないので、自由な気持ちで知的好奇心を持ち続けるのことが大事だと思います。

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哲学を大学以外の場で生かす方法を教えてください

当然のように感じていること、考えていること、やっていること、そういう普段ほとんど気に留めない(深く考える時間がない)ような物事について、なぜそれがそうなっているのかとか、そもそもそれがそうなっているとはどういうことか、という風な問いを立てると、哲学的な考え方や哲学の知識が活きてくると思います。
最近だと、安保関連法案に関係して、攻撃することと身を守ることの違いはなにかとか、また政治的なデモに参加する意義はなにかとか考えてみたり、東京五輪エンブレム問題に関係して、「パクる」「模倣する」「パロディあるいはパスティーシュをつくる」「参考にする」といったことはそれぞれどういうことで互いにどういう関係にあるか、またそれぞれはどういう意味で良いとか悪いとか言えるのかと考えてみたり、人となにかコミュニケーションをとった時に、人と人の間ではしばしば言われたことと別の意味のことが伝わったり何も言わないことが何かを意味したりするのはどういう仕組みによってか、そもそもなにかが伝わるとはどういうことか、またなにかが人に伝わったということはどうやってわかるのか、と考えてみたり…
とにかくおよそどんなところでも、なにかが成り立っていたりなにかが起こっていたりすれば、それが成り立っているとか起こっているということはどういうことか、そしてなぜそれは成り立っているあるいは起こっているのかという問いを立てることができます。このような問いは、初めは様々な科学によって答えが出せることも多いですが、そうして出た答えに対してまた同じ問いを立てて考え続けると、遅かれ早かれ哲学に近づくでしょう。哲学的な考え方や知識が活きるのは、営業とか子育てとか恋愛とか、そういう限定された領域ではないのです。「物事がかくかくしかじかであるということはどういうことか、そしてなぜそれはそうなのか」というような問いをじっくり考えてみる場面はすべて哲学が活かせる場面です。そして人がものを考えて生きる限り、人の生活のどんな場面もこの意味で哲学的な場面たりえます。
これでは「哲学は哲学的営みをするために役に立つ(そしておよそどんな場面も哲学的営みをするきっかけでありうる)」と言っているようなものではないかと思われるかもしれません。こういう答えではなく、哲学的営み以外の実践的な文脈(どうすれば良く眠れるかとか、どうすれば効率良く貯金できるかとか)で哲学がどう活かせるのか知りたいのだとおっしゃるかもしれません。しかしそのように問うのは、「立ったり歩いたり走ったり跳んだり踏んだり蹴ったり漕いだり、そういうことをするつもりも暇もないけれど、足の活かし方を教えてくれ」と問うようなものです。

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Savulescu先生の講義を受けたことありますか?

いいえ、ありません。Julian Savulescu教授が行う講義やセミナは基本的にすべて応用倫理に分類されると思いますが、僕は応用倫理は学問的にはまったく勉強したことがないので…。(興味関心がないということではないのですが、倫理を応用する対象(医療、ビジネス、スポーツなど)に関する十分な知識が僕にはないのです。)単発の特別講義かなにかなさることがあって、おもしろそうなトピックで、時間があれば、見に行くかもしれない、くらいの感じです。

プラトンのイデア説は今ではただの骨董品で何の有効性も使い道もありませんか?

そんなことはないと思います。まず、プラトン研究や古代ギリシャ哲学史などの文脈ではイデア説の解釈は当然ながら今日でも大変に重要な話題です。ただおそらく質問の意図は、プラトンのイデア説のような主張や考え方は、今日では哲学的な問題への有力な答えとして認められるかということでしょう。これに答えるなら、具体的にどのような主張や考え方をもって「イデア説」としているのかをはっきりさせなければいけません。
現代的な言葉で言い換えられていても、プラトンだったらイデアを持ち出して説明しただろうという意味でプラトン的と呼べるようなリアリズムを様々な哲学的問題(たとえば抽象的対象、性質、価値の存在論や規則遵守など)に対する立場として支持する哲学者は今日でもたくさんいます。そういう人たちの立場を検討することは(狭く哲学史の領域を越えて)重要ですし、このためにプラトンのテクストに戻ってみるというのも有効な手段でしょう。
また、プラトンのイデア説はよく戯画的に誇張して言われるようなとんでもない超自然主義ではないという解釈もあります。たとえばマクダウェルなどは「プラトンはアリストテレスのような自然主義者であり、ただ自身の考えを絵画的提示手段で鮮烈に表現する強い嗜好があるだけだ」と書いています。この解釈が的を射ているなら、プラトンのイデア説は少なくともマクダウェルが「アリストテレスのような自然主義」と呼ぶ考え方と同じくらいには今日でも重要だと言えるでしょう。

career development fellowってどんなお仕事内容なのですか?

キャリア・デヴェロップメント・フェローシップは、博士号を取ったばかりの若手にさらに研究を進める機会と環境を与えつつ、テニュア(終身雇用)を持つ研究者の仕事内容にも慣れさせるということを目的とする、いわゆる「ポスドク」と呼ばれる種類のポジションです。なので、仕事の中心は研究ですが、これにかなり軽めのティーチングと、入試関連の仕事がつきます。

見分けれないモナリザのコピーと本物のモナリザって美しさが違うんですか?

「見分けられない」というのは「どういう人がどういう環境・状況でどういう道具を使ってどのくらいの時間をかけても見分けられない」ということを指すのかという問題を脇に置いても、まず「(モナリザのような絵画が)美しい」とはどういうことなのかという問題があります。
二つの対象の美しさの違いは、これらの対象の持つ(なんらかの適切な意味で)知覚可能な性質の違いである、あるいはそのような違いに付随する、といった考えを含意するような美しさの分析を支持する人もいますし、このような分析を否定する人もいます。美しさというのは形や色などと同じように分析できるような性質ではないと考える人もいます。何かを「美しい」と主張することはそれが何らかの性質を持っていると主張することではないと考える人もいます。僕自身としても、どのような考え方が魅力的に感じられるかという程度のことをいうのも躊躇するほど本当に色々な考え方があります。

真・善・美は主観的なものでしょうか?それとも客観性を帯びたものなのでしょうか?

「真」「善」「美」がどういう事柄を指しているのか、これらが「主観的」なものである、あるいは「客観性を帯びたもの」であるということはどういうことなのか、じっくりと明らかにしないとなんとも言えないと思います。真・善・美がきれいに分けられるようなものなのかもわかりませんし、ひとつのことがある側面では主観的だが他の側面では客観的であるという可能性も検討しなければいけないでしょう。

「この世は決定論的に決まっている」という信念と「私には自由意志がある」という信念を同時に持つことはできるのでしょうか?また出来るとすればそのとき「自由意志」で意味されているものは何なのでしょうか?

単に信念ならば同時に持つことができます。どちらかあるいは両方とも間違っているかもしれませんが。
…というのは意地悪な答えで、質問なさっているのは、この世界に関して決定論が真でありかつこの世界に生きる私たちに自由意志があるということは正しいか否かということだと思います。この問いに肯定で答える見方は「両立主義 compatibilism」、否定で答える見方は「非両立主義 incompatibilism」としばしば呼ばれます。それぞれの見方をとる人たちが、「決定論」と「自由意志」という表現で意味することはさまざまです。
両立主義者がとる自由意思の考え方としてひとつ有名なのは、ある人が自由意志によって(≈自由に)ある行為をするとは、その人がその行為(の結果)を引き起こすということだというものです。何かが何かを引き起こす(≈物事の間に因果関係が成立する)ということが決定論を含意するならば、この考え方では、自由意志と決定論は単に両立するばかりか、前者は後者を前提しているということになります。古典的な解釈ではヒュームがこのような考え方であるとされています(最近では全然違う解釈も展開されています)。
僕自身は「決定論」にしても「自由意志」にしても、どのような意味で使うべきか定まった考えをもっていないので、自分はこの立場、というのはありません。ただいわゆる「自由意志」というのはそれ程とんでもない話ではないという気がしています。一つ以上の選択肢があることがわかっていて、強制されることなくそのうちのどれかを選ぶ力を持っていれば、自由意志があるといってよいと思います。(よって、僕の見方では、人間以外の動物の多くも自由意志を持ちます。)

僕は存在するのでしょうか? 数年程考え続けておりますが自分で納得できる答えにはまだ辿り着けておりません. ゆうきさんはどう御考えになるのでしょうか?

この質問はコンピュータかなにかが自動生成したものではないでしょうから、この質問を書いたのは少なくともこういう質問を書いて送ることができる存在でしょう。この存在が、あなたが「僕」という人称代名詞(「わたし」でも「je」でもいいですけど)を使って語る(ことのできる)存在なのでは?

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