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天皇制についてどう思われますか?

日本人に超越性をもたらすと同時に日本人を超越性から引き離す、極めてダブルバインディングな仕組みなのではないか、という気がします。言い換えれば、日本において希薄であった絶対的な基準をかろうじて成り立たせる側面と同時に、北一輝のいわゆる「乱臣賊子」である国民を、天皇を担いでいればなにをやってもよい、勝てば官軍である、式の泥沼の相対主義に陥らせる性格としても機能しうる、ということです。こういう観点から論じられたことがあったかどうか知りませんが、もしまだであれば、誰かが本を一冊書かなくてはならないのではないか、とも。
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Latest answers from hhasegawa

ドイツ語が全く読めませんが『魔の山』が読みたいです。どの翻訳がいいですか。思いの丈を語っていただけると助かります。

いま流通している翻訳って関泰祐、望月市恵共訳(岩波文庫)と高橋義孝訳(新潮文庫)くらいでしたっけ?両方とも通読したことはあります。そのときの思い出でいえば、よりリーダブルなのは後者でしょうかね。もっとも原文と照合したりしたことはなく、翻訳としてどうかという話はできません。
さて、マンについては思いの丈を語ってボロが出ないほどの見識もないので、自分の関心事であるレオ・ナフタの造形についてだけ少々。彼に関しては、ルカーチをモデルにしたというのが定説化し(白水社版『ルカーチ著作集』所収のカール・ケレーニイ論文など)、日本でももっぱらそのように語られている一方、ほかにクラーゲスの名前を挙げる者(Reinhard Falter, Ludwig Klages. Lebensphilosophie als Zivilisationskritik, München 2003)や、時代が合わないのを承知でエルンスト・ユンガーと言う人(脇圭平『知識人と政治』岩波新書)もいたりします。また、そのユンガー論で知られるゲルハルト・ローゼは、ゲオルゲ・クライスやミュンヒェン宇宙論派の近傍に位置したカトリック思想家のルートヴィヒ・デアレート(Ludwig Derleth)をナフタに擬しています(Gerhard Loose, Naphta. Über das Verhältnis von Prototyp und dichterischer Gestalt in Thomas Manns "Zauberberg", in: Ideologiekritische Studien zur Literatur. Essay I. Hg. von V. Sander, Frankfurt am Main 1972. なお、デアレートはマンの短篇「予言者の家で(Beim Propheten)」のモデルでもあります)。これを受けナフタ/デアレートの背後にドノソ・コルテス以来の系譜を見いだす向きもありますし(Richard Faber, Politische Dämonologie. Über modernen Marcionismus, Würzburg 2007)、ルカーチにこだわらず、文字通りカトリック右翼の文脈に着目して詮索するのもおもしろいかな、とか思っております。

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左翼ですか?右翼ですか?

そうですね、「左派浪曼派」をでも標榜するとしましょうか。ドイツ語でも»Linksromantiker«という単語はあるようで、管見の限りでは揶揄的なレッテルのようですが、それを敢えて自称するのも一興でしょう。

長谷川さんの言ってること、むずかしすぎてほとんど大体意味がわかりません。もっと易しく書くことゎできませんか。

ツイッターにおいては「AはBである」式の文体は採用せず、エンターテインメント性を、ただし幾分か限定された読者を想定したそれを、意識したものにしております。ですので、「よくわからない」方が多いのは当然かもしれません。私の場合、自由に書ける場ではほぼこのスタイルでやることにしており、それは今後も変更することはないでしょう。もちろん、事務書類などでは気が進まぬながら単調な書き方をせざるをえないわけですが。
また、私が書くような内容を、いわゆる「わかりやすい」書法でツイートしてしまった場合、いわゆる「炎上」までは行かないまでも、リプライ欄がクソリプで埋まるような事態が想定されるところです。そういった面倒事を避けるためにも、意図して「通じる人にのみ通じる」修辞を開拓するようにしている、という動機もあります(参考:https://twitter.com/hhasegawa/status/446753348415270912)。これは、暗い時代を生きるため、今後ますます必要とされるであろう自己訓練でもあります。Μελέτη το παν...

ツイッター知識人ぶっていらっしゃいますが、肝心の博士号はいつとれそうですか?

ツイッター知識人、そういうのがあるのか...。
さて、ありがたいことに、来年度(2016年度)まで現在の所属大学における研究滞在資金をいただけることになっていまして、その辺を目途に取得するつもりでおります。もちろん、なにかの不手際で日本に強制帰国させられるかもしれませんし、いまは落ち着いているとはいえユーロ高の激化で当地で生活できなくなるかもしれませんし(日本円でいただいているので)、先のことはわかりません、としか申せませんが。
なお、私のツイッターの利用法は、村はずれで誰と話すわけでもなく勝手なことを壁に向かってぶつぶつ独り言をつぶやく(tweet)というものなのですが、考えてみれば、知識人のあり方というのは本来そうしたもので、自称預/予言者とか道化とかに極めて接近したいかがわしい存在なのかもしれません。そのような意味でかくご質問になったとすれば、まったく炯眼としか言いようがありません。

平民竹田みたいな人は近現代西洋にもいるんですか?

近現代西洋には「王位請求者(Thronprätendent、pretender)」という概念があり、廃された旧王家の構成員が王位を要求する(放棄しない)場合そう呼ばれるのですが、旧宮家の皇籍復帰論を王位継承権の復活要求に相当すると考えると、彼に近いのはそういう面々でしょう。もっとも、19世紀までならともかく、いまどき本気で君主なり王族なりに返り咲こうとしているのかは怪しいところで、むしろ旧王家の権威を背景に共和政下の政界や官界に打って出るパターンが旧東側などで出始めているようです(ブルガリア元国王=元首相など)。それだけに、あんな際物めいた芸風の人間はそうそういないんじゃないでしょうか。逆に、悲しいことにいまの日本では際物芸が受けてしまうので、彼が議会に出てくることは想定しておいた方がよいかもしれません。
https://twitter.com/hhasegawa/status/393346711784935424

市民一人一人が正しくならなくても、社会が正しく運営管理されてよりよくなっていくことは可能でしょうか。「正しい」や「よい」はどのように解釈して頂いてもかまいません。

「正しい」や「よい」をどのように解釈してもよい、とおっしゃいますが、「市民」についてこそ解釈を要するように思います。Bürgerにせよcitoyenにせよ、城壁に囲まれた都市(Burg、cité)の内部に特定の権利を持って住んでいる自由民、と少なくともある時代までは考えられており、現代人が漠然と言う「市民」とはだいぶ隔たりがあるわけですよね。古典的な「市民」に期待された「正しい」や「よい」、言い換えれば徳や善を現代的な意味での「市民」(≒ある領域の住人)に求めるのは不可能だが、かといって古典的「市民」層はもはや存在しないという状況下にあっては、現代的「市民」の海のなかに古典的「市民」に代わって正義を体現するエクレーシア(教会)=党を建設するしかないのではないでしょうか。ご質問に「可能である」と答えるとしたら、「党が必要である」という意味においてです。

ご存知の限りで今一般に出回ってる資本論の翻訳の中で一冊当たりの重量が一番軽いのはどれでしょうか 岩波版は一応読んだので別の訳も読みたいと思ってるとこなんですが しばらくカバンに入れっぱなしになるだろうから軽いのがありがたいんです 岩名文庫でも半年の間、たぶんにカバンの底の邪魔っ気の役を演じてくれてたので・・・

『資本論』邦訳は岩波文庫と筑摩書房の『コレクション』(ただし一巻のみの刊行)しか所持しておりませんし、公言しているように在外中ゆえ書店で確認というわけにもいきませんし、あまり適切な回答者ではないような気もしますが、ぱっと思いつく限りですと、いま入手できる軽装版は大月書店国民文庫版(岡崎次郎訳)と新日本出版社の新書版(資本論翻訳委員会訳)で、前者が岩波同様の9分冊、後者が13分冊ですから、「一冊あたりの重量が一番軽い」のは新日本出版社版ではないでしょうか。翻訳の質や傾向(党派性?)については読んだことがないので存じません。個人的には、あの直訳調が気に入らないなどの好き嫌いはあるにしても、またいくつか訳語選択の問題(Besitz=占有とEigentum=所有の訳し分けなど)もなくはないとはいえ、日本語版として参照するのは岩波の向坂逸郎訳でいいのではないかと思っており、あまり複数を所持して比較する気にはならないところです。

「口頭試問の試験官めいた…」長谷川様のご気分を害してしまい申し訳ございません。

いえいえ、気分を害しておりません。こういう機会でもなければ頭のなかが整理されませんので、むしろ望外の喜びでした。

長谷川様が「夕べの国」という概念乃至イメージとともお考えになっていることを詳しくお聞きかせ願えませんか。ハイデガーがヘルダーリンやトラークルを論じる際に用いる Abendland が念頭に置かれていることは承知しているのですが。

ヘルダーリンが「夕べの国」というとき念頭に置いているのはヘスペラ(ἑσπέρα、ドイツ語ではHesperien)なるギリシアの神話的地名であり、これは原義的にはギリシアから見て西に位置する地中海沿岸地域をいう概念で、そこにはオリエントからギリシアに伝播した文化がさらに西遷して行きつく先という含意が込められているわけです。ヘルダーリンはこの意味における「夕べの国」がドイツであることを望み、西欧のなかでもドイツを特権的に指し示すかのように使われる伝統を生み出したのですが、周知のとおりフランス革命以降のドイツの政治・文化情勢は文学者たちが理想化した古典期ギリシアの継承者とはとても言い難いものであり、それゆえ「夕べの国」概念には非存在ないし未実現といった陰影がまとわりつくようになります。
さらに、「夕べ」の語感も相俟って、特に二十世紀以降においては、この語が「西洋の没落」的ニュアンスを帯びるようになるのも外せないところです。「汝ら死にゆく諸国民(Ihr sterbenden Völker)」と呼びかけるトラークルの詩「夕べの国」は、まさにそのような気分に満ちています。
「夕べの国」自体が非常に喚起的な言葉ということもあって、実のところそれほど確たる定義のもとに用いてきたわけではないのですが、この機会に自己分析を試みれば、以上のように、(1)非存在、(2)未実現の理念、(3)没落といったイメージが渾然一体と入り込んだ、実在するドイツ連邦共和国とは別の位相における「秘められたるドイツ(ゲオルゲ/カントーロヴィチ)」という使い方をしてきたように思います。トラークルを論ずるハイデガーを起点に、ユンガー『大理石の断崖の上で』のマリナーやクビーン『裏面』の夢の国(Traumreich)といった、最終的には崩壊することになる架空の場所を「夕べの国」として一括して扱った批評がカッチャーリ『死後に生きる者たち』(昨年みすず書房から邦訳が出ましたね)であり、これなどまさに私の用法に近いものといえます。
...今回は口頭試問の試験官めいたご質問だったので、それらしくご返答した次第です。

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