私もちょっと悩んでみましたよ。あんまり長い時間を割けないのでデッドラインを設定しました。締め切りだいじ。
一つ目の結論はずばり、「子供は『物』です」
よろしければ、稚拙な論理を辿るのにしばしお付き合いくださいまし。
ケース1. メントスを入れたコーラは、暴発する。メントスが一人でに意志を発揮させ、暴発を阻止することはできない。よってメントスに自由意志はない。
ケース2. 私は、メントスとコーラを置いた机の前に立っている。メントスを入れたらコーラは暴発する。私は、暴発 (させたいという意思) を阻止するべく、メントスをコーラに入れない選択を取る。私には手にとったメントスをコーラに入れることも、入れないで食べることも、どちらもせず机に戻すこともできる。ここで得た決定権は私の自由意志だ。
ここまでは比較的単純明快です。次に、人間と動物の区別が曖昧になる事例を見てみます。
ケース3. 基本的なしつけの訓練を受けた犬は、家の外でおしっこする。家の中で勝手気ままにすることはしない。これは犬が物理的に排泄ができない訳ではない、飼い主にしてはダメと教えられ、自発的にしない選択をとっているからだ。これは犬の持つ自由意志だと考える。何かを自発的に我慢するという選択肢を持つ動物の存在を私は認める。
ケース4. とてもタイプの女の子を前にして「理性が吹っ飛んじゃったぜ」とか言ってる男は、アレゲな行動に走る。この男には「理性を失くす」と発言した時点で、その次にとろうとする行動を阻止する力を放棄している。女の子の魅力が「引き金」となって行為に及ぶ以上、男の意識から自由意志は (一時的に) 消えると言える。
以上、動物は意志を持たないがゆえに「有機的機械、つまり物」であり、「成人は意志のある者」であるという主張に対する反証の一例です。
ここでのポイントは、単に質問者の言葉の揚げ足取りに走ることではなく、何を動物とし何を人間とするかの線引きを明確にしておくことです。人間的な行動をとる動物もいれば、動物的 (しばしば野性的ともいう) な行動をとる人間もいる。
質問者が用意してくださったコンテキストにおいて、自由意志を持たない選択肢を取るヒトは、「物」か「者」と問われたら「物」と答えることができます。「獣」といったほうが私にはしっくり来ますが、そもそもの語源が「毛の『物』」にあるらしいので、質問者の主張と整合性は取れていると判断できます。
人間的な動物にあって、動物的な人間に無いものが、自由意志です。解釈の一つとして提起します。自由意志というのは、その名に反して ironic に感じるかもしれませんが、「その行動をとることで起こり得ることを回避する力」とは言えませんか。我慢する力。生物的な本能に抗う力。ロボットだって決して好意で微笑むのではなく、プログラムされたから否応なく笑う (行動を取る) のです。そういう人間っぽい有機的な機械、あなたの周りにはいませんか。そうですか。
それはさておき、自由意志をそう解釈した上で子供を当てはめると、我慢する能力がまだ小さいという点で、自由意志を持っていない動物的な人間に分類することができる、と言えます。ぐずって泣く赤ちゃんは本人の欲求が満たされるまで、あるいは不満が解消されるまで、泣き続ける。そこに自由意志はまだ成立していない。
したがって子供は「物」だと結論づけることに私は納得がいきました。∩(・ω・)∩
……ダメですかね?
ところで、この質問では子供と人間の線引きもさほど明確化されていないので、それもはっきりしておきます。
生物学的な年齢による区別は、さほど意味を成しません。でなければ、「歳の割に老けている/幼い」とかいう言葉になんの価値があるのか。
最大の鍵は「学び」にあると考えます。自由意志を適切に行使するタイミングを知るために、どんな場所に置かれても生きていける知的態度を持つために、人間は常に学ぶ。それが基本姿勢であるべきです (母校ではそういった態度を持たない生徒をサル、すなわち動物と呼んだ)。ヒトは学校に入ってから何かを学ぶのではない、生まれた瞬間からあらゆるものを吸収し始める。子供 (動物) は、そういった意味での「人間」になるために勉強するのであり、動物が人間に変わるのは学校ではなくまず家庭だと思ってます。
勉強を何のためにするのかと訊かれて「将来のため」と答える人に、本質的な自由意志をその人から感じることができない。「将来のため」ってどういうこと? 卒業したあとに仕事を見つけて、ちゃんとお金を稼いで生計を立てることだというのなら、就職が決まったらめんどくさい勉強なんてバカらしくてやってられないよね。内定もらった途端、大学休んで卒業旅行でかけますとか、「これが俺達の自由意志の行使だ」とか言う近況が私の所にも流れてくる。何のためにいままで20年以上生きて学んできたのと、他人ごとなりに心配する。
それはそうと、「自分の意思は自らの身体を思いのままに動かせる」なんてのは、過去の人間の勝手な思いこみにしかすぎないかもしれませんよ。
https://vimeo.com/51018843https://youtu.be/9eD64HzP3yQ人間は実は自由意志を持たず、脳をつかさどるニューロンの繋がり (ひいては意思を持たない化学物質) と、それらを行き来する意思を持たない電気信号によって動かされているのでは? いやもちろん、それらがちゃんと機能してくれているから、質問者も、回答者である私も、こうやってやり取りができているわけですが、化学物質を構成する原子や電気信号がバラバラになっていれば、この地球には私に問いを投げかけた質問者も、それに答えた私もいない、とは考えられませんか。
ここに、ふたつ目の結論が見えてきます。「子供『も』物です」
すなわち、「人間も含めた」すべての生物が、意思をもたない「物」となる。
この結論は人によっては受け入れられないものかもしれません。私たちが日々とり続ける選択が、コーラの中で無慈悲にも暴発するメントスと何も変わらないなんて、受け入れられますか。親の遺伝子コードを元にして生まれてきて、既に存在する自然の理や社会の規範の元に「プログラム」されてきたあなたも、親や規範に抗ったところでそれはなるべくして起こった結果だったなんて、受け入れられますか。
……自由意志そのものを完全に斬るつもりはないです。でなければ、多神教になって森羅万象に宿る何かの存在を漠然と信じたりはしない。人間によって釣られるまで魚が水を意識しないように、数百年前まで人間が宇宙を意識しなかったように、現段階で科学的な証明は出来なくても、今の私たちや機械に感知できないものを私は否定しません。
ただ、他の動物達と性質上同じである人間が、ちょっと表現力と思考力を持ったからというだけの理由で、他のすべての動物と区別されるべきというデカルト主義っぽい前提は、現代科学と照らしあわせると綻びができているように見えます。
哲学から遠くはなれた私に質問を送ってくださって、ありがとうございます。
期待したとおりの答えになってなかったら、お詫び申し上げます。
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