イーストウッドの男たちにてコーネルはイーストウッド映画をマスキュリニティの限界の自覚と解体という視点で解釈してますが、日本でもそういう典型的マスキュリティ神話とみせかけたマスキュリニティ解体という構造を持った作品が出てくると思いますか?

 日本ではむしろ、まるっきりのマッチョなヒーロー物語みたいなものがもともと少なくて、作られる前から解体されていた!みたいな変な話になっちゃいそうなものが多そうですね。たとえば、笠原和夫脚本による一連のヤクザ映画とかは、コーネルの本で論じられていたような、典型のようでありつつも抗いがたくズレていく男たちの悲劇を描いたものとして観ることができるんじゃないかと思います。
 むしろ、なんで日本ではあからさまなマッチョ映画が育たなかったのか、という問いのほうが興味深いかもしれませんね。戦意高揚映画とかも、今から見るとなんだかわびしいものばっかりで、こんなもので当時の人々は何か燃えてきたりしたことがあったんだろうか?と不思議に思うものばかりですし。石原裕次郎とか小林旭がマッチョなヒーローだったかというとなんか違う気もするし、寅さんはもちろん違うし、まあなんかよくわからない。

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大学院のカリキュラムを横断比較する方法ってないですかね。ニッチな分野だとどこで何学べるかがさっぱりわからないよ。

.それマジでわからないんで、そこの先輩に聞くしかないと思う。ツイッターで探せば誰かいるだろう。先生の研究テーマで選ぶのは、やりがちだけどあんまり意味がない。大学院は院生がつながるところ。

それが将棋の質問も答えない理由か

.将棋は単純に見ててつまんなくなった。藤井が将棋を終わらせた。

わたしの現代新書にムカついたのは多いから?書籍をネタにするセンスがやだった?

.どんなものでもたくさん流れてくるとムカッとくる損な性格なんだよ。

岡口裁判官によって柳は迷惑かけられてるの?柳は法曹じゃないから関係なくない?

.まあ、本名で SNS やることのリスクが間違った感じで広まってしまったというか。

大学から人文系を無くせという声はあるが、数学を無くせという声はあまりないのはなぜでしょうか。数学の研究は、直接もしくはすぐに役に立たなくても必要だと思われていて、他分野や社会から一目置かれている。人文系もかつてはそうだったはずで、それが変わったのはいつごろで、なぜそうなってきたのでしょうか。

.入試科目として数学が重要になったから、数学なくせなんていうとバカっぽく思われるからじゃないかな。文系科目は誰でもそこそこできるので0点はないけど、数学はコンプレックス刺激しやすいし。あと、もともと数学のポストなんてほとんどないけど、人文系は大学の拡大とともにどんどん増えたので、いろいろ恨みも買っているのだろう。

ここ数年ヤクルト村上が不振なんだけど、これは柳もまた村上ファンを公言できるのでは?

.あのホームランがいいのであって、打たない村上なんか知らんわ。

こいつまじで馬鹿だなって思ってもらって、それで出てってくれるならそれでもいいんだけど?

.出ていかないっしょ。あーこいつ馬鹿だなーと思われながら表面上で言うことだけ、みたいになる。人を出ていかすのはとんでもなく難しいんだから、入れた以上は力を生かしてもらうように工夫しないと仕方がない。

職場の院卒の若手が全然使えないです。机上の学問は実務じゃ通用しないんだよってマウンティングしてもいいですか?

.うわこいつマジで馬鹿だなって思われるだけだよ。

柳は新書とか書く予定ある?これから出す単著のエッセンスだけ抽出した初心者向けみたいなやつ

.日本語で一般向けの仕事をするインセンティブがとことんなくなっているので、そんなゆるいものは書かないと思う。

「講談社現代新書を書くのに向いてそう」は文系研究者が言われるのは嬉しいですか?

.講談社、中公、岩波だったら悪口とはそうそう思われないんじゃないか。

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