いまピケティが流行ってますけど、数年前のサンデルブームって何だったのでしょうか。
1) サンデルブーム
.あれってなんだったんですかね、というのは法哲学の授業の最初のほうで問いに出して考えてもらってるんですが、もう5年ぐらいたってしまったので、知らない学生も多くて難しくなってきちゃいました。ピケティで代わりのことができるかなあ。
.というのはともかく、表向きの答えとしては、長く続く不景気とかで社会的な価値基準が揺らいできており、またテレビ番組から時期がちょっと後になりますが、東日本大震災とそれに続く原発事故などもあって社会的な「正義」というものをしっかり根本から考えてみたいというニーズに応えるものだったということもあるでしょう。
.あとはサンデルの講義というか場のさばき方はやはり上手なもので、哲学的風味の「対話」をエキサイティングなショーとして見せるワザを開発したわけですね。で、日本でもその後、それを真似した「白熱教室」が大学でも市民集会でもいろんなところで行われていて、私も便乗しているのでちょっとあれですが、そういう抽象的な議論に参加したい、とにかく「何か言いたい」という強い思いを持った人がずいぶん多くなっている感じはします。以前だといわゆるプロ市民とかいって敬遠されてきたのが、かなり一般市民にも消費されうる娯楽になってきたというか。「きみは◯◯主義だね」というラベリングによる、血液型占いみたいな安心感もあったわけで、というのは意地悪な感じになりますけど、そういう「◯◯主義」みたいな知のアクセサリーへの欲求もあったんだろうとは思います。
.各種の「知のアクセサリー」で武装した「哲学的対話」への欲求がここまで一般的になったのは、少なくとも1970年代以降ぐらいに絞るならば、たぶんけっこう新しい現象ではないかなあ、と思います。1980年代のニューアカデミズムの知のこけおどしは、せいぜいが都会の大学生を中心とする狭いブームでしたが、「白熱教室」はそれこそ地方の公民館とかでイベントやって満杯になるぐらいのものなので、さすがにこれだけのものはそうそうなかったでしょう。
.現状、「反知性主義」とかポピュリズムとかいろいろいわれています。大勢としてそれは無視できないものではあるんですけど、一方でこういう「知」を求めるポテンシャルはそれなりにあるわけなので、まあ、あんまり悲観することもないのではないかと。もちろん、そんなふうに対話が軽くなってしまうことでかえって本質的な批判精神みたいなものが骨抜きにされている、それこそネオリベ的コミュ力至上主義の思うつぼだ、みたいな文句の付け方もできるとは思いますが、まあどうなんでしょう。そうはいっても何もないよりはマシなので、生産的な方向に生かしていくための基礎として捉えるほうが健全だとは思います。
.
2) ピケティブーム
.一方、ピケティがそれに匹敵するほどのブームになっているかどうかはまだよくわかりませんが、それでもかなりのものであることは間違いないでしょう。ただ、ピケティがサンデルと違うのは、格差社会批判というかなり明確な主張をともなっているところですね。
.サンデルは共同体論者とか共和主義者ではありますが、「白熱教室」では問題提起と交通整理に徹して、かなり注意深く自説を抑制しています。一方、ピケティは経済学者としての格差分析にとどまらず、格差是正に向けたいろいろな処方箋、それも日本の実情までふまえたものをサービス精神豊かに提供してくれている。サンデルは「答えのない」問いに人々を誘ったわけで、これは対話のあり方としてはかなり高度なものではあるんですが、それに対し、日本経済のこれからについてのピケティ先生の御説拝聴、みたいになってくるのはなんというか、「対話」という意味では残念ながら後退したもののようにも思えます。「答えのなさ」に耐えるのは不安なものですが、えらい先生に「答えを出してもらう」のはやはりラクですからね。
.あと、ピケティがウケるのは、1)難しい経済の話でありながら数式はほとんど使わず、また「r>g」というシンプルな結論と、グローバル累進税といった格差是正の処方箋のつまみ食いを許すこと、2)おフランス発で(←ここ重要)、バルザックとか使ったりして人文的教養主義の反動の香りを漂わせていること、といったことも大きいでしょう。要するにアメリカ主導のグローバリゼーションに対するアンチとして受容されている面があり、それが2000年代以降の「格差社会批判」系左派、そしてグローバルなんとかの大学改革(とりわけ人文系削減)への被害者意識をもつ層にとって、ピケティが突然現れたヒーローとなっているということもあると思います。
.サンデル「白熱教室」はその徹底的な中身のなさゆえに(もとのハーバードの学生みたいな「予習」はどこかにいってる)、コミュニケーションスキルの育成@できれば英語で、みたいな教育にも便利なものであるし、もっといえばとりあえず何かいろいろ議論してもらってほどよいガス抜きをすることで正統性調達を図るのにも使いやすいものであったわけですーー実際、お役所系のいろんなワークショップとか気付きの場で似たようなものがいっぱい開催されている。それに対し、ピケティのように明確な「中身」があってしまうと、アメリカ発のグローバリゼーションや格差社会に対するアンチとしてのコアな人気は獲得できますけど、それを超えた社会現象にまではなりにくいように思っています。
.あれってなんだったんですかね、というのは法哲学の授業の最初のほうで問いに出して考えてもらってるんですが、もう5年ぐらいたってしまったので、知らない学生も多くて難しくなってきちゃいました。ピケティで代わりのことができるかなあ。
.というのはともかく、表向きの答えとしては、長く続く不景気とかで社会的な価値基準が揺らいできており、またテレビ番組から時期がちょっと後になりますが、東日本大震災とそれに続く原発事故などもあって社会的な「正義」というものをしっかり根本から考えてみたいというニーズに応えるものだったということもあるでしょう。
.あとはサンデルの講義というか場のさばき方はやはり上手なもので、哲学的風味の「対話」をエキサイティングなショーとして見せるワザを開発したわけですね。で、日本でもその後、それを真似した「白熱教室」が大学でも市民集会でもいろんなところで行われていて、私も便乗しているのでちょっとあれですが、そういう抽象的な議論に参加したい、とにかく「何か言いたい」という強い思いを持った人がずいぶん多くなっている感じはします。以前だといわゆるプロ市民とかいって敬遠されてきたのが、かなり一般市民にも消費されうる娯楽になってきたというか。「きみは◯◯主義だね」というラベリングによる、血液型占いみたいな安心感もあったわけで、というのは意地悪な感じになりますけど、そういう「◯◯主義」みたいな知のアクセサリーへの欲求もあったんだろうとは思います。
.各種の「知のアクセサリー」で武装した「哲学的対話」への欲求がここまで一般的になったのは、少なくとも1970年代以降ぐらいに絞るならば、たぶんけっこう新しい現象ではないかなあ、と思います。1980年代のニューアカデミズムの知のこけおどしは、せいぜいが都会の大学生を中心とする狭いブームでしたが、「白熱教室」はそれこそ地方の公民館とかでイベントやって満杯になるぐらいのものなので、さすがにこれだけのものはそうそうなかったでしょう。
.現状、「反知性主義」とかポピュリズムとかいろいろいわれています。大勢としてそれは無視できないものではあるんですけど、一方でこういう「知」を求めるポテンシャルはそれなりにあるわけなので、まあ、あんまり悲観することもないのではないかと。もちろん、そんなふうに対話が軽くなってしまうことでかえって本質的な批判精神みたいなものが骨抜きにされている、それこそネオリベ的コミュ力至上主義の思うつぼだ、みたいな文句の付け方もできるとは思いますが、まあどうなんでしょう。そうはいっても何もないよりはマシなので、生産的な方向に生かしていくための基礎として捉えるほうが健全だとは思います。
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2) ピケティブーム
.一方、ピケティがそれに匹敵するほどのブームになっているかどうかはまだよくわかりませんが、それでもかなりのものであることは間違いないでしょう。ただ、ピケティがサンデルと違うのは、格差社会批判というかなり明確な主張をともなっているところですね。
.サンデルは共同体論者とか共和主義者ではありますが、「白熱教室」では問題提起と交通整理に徹して、かなり注意深く自説を抑制しています。一方、ピケティは経済学者としての格差分析にとどまらず、格差是正に向けたいろいろな処方箋、それも日本の実情までふまえたものをサービス精神豊かに提供してくれている。サンデルは「答えのない」問いに人々を誘ったわけで、これは対話のあり方としてはかなり高度なものではあるんですが、それに対し、日本経済のこれからについてのピケティ先生の御説拝聴、みたいになってくるのはなんというか、「対話」という意味では残念ながら後退したもののようにも思えます。「答えのなさ」に耐えるのは不安なものですが、えらい先生に「答えを出してもらう」のはやはりラクですからね。
.あと、ピケティがウケるのは、1)難しい経済の話でありながら数式はほとんど使わず、また「r>g」というシンプルな結論と、グローバル累進税といった格差是正の処方箋のつまみ食いを許すこと、2)おフランス発で(←ここ重要)、バルザックとか使ったりして人文的教養主義の反動の香りを漂わせていること、といったことも大きいでしょう。要するにアメリカ主導のグローバリゼーションに対するアンチとして受容されている面があり、それが2000年代以降の「格差社会批判」系左派、そしてグローバルなんとかの大学改革(とりわけ人文系削減)への被害者意識をもつ層にとって、ピケティが突然現れたヒーローとなっているということもあると思います。
.サンデル「白熱教室」はその徹底的な中身のなさゆえに(もとのハーバードの学生みたいな「予習」はどこかにいってる)、コミュニケーションスキルの育成@できれば英語で、みたいな教育にも便利なものであるし、もっといえばとりあえず何かいろいろ議論してもらってほどよいガス抜きをすることで正統性調達を図るのにも使いやすいものであったわけですーー実際、お役所系のいろんなワークショップとか気付きの場で似たようなものがいっぱい開催されている。それに対し、ピケティのように明確な「中身」があってしまうと、アメリカ発のグローバリゼーションや格差社会に対するアンチとしてのコアな人気は獲得できますけど、それを超えた社会現象にまではなりにくいように思っています。
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