社会的批判は市民社会にとって欠くべからざる機能ですから、一定当然かと思われますが、基本的人権はどんな人にも認められなければなりません。これが大原則です。たとえ、やむにやまれぬ理由で部分的に制限されるとしても、それはあくまで"イレギュラー"な状態であり、望ましいことでは決してありません。死刑という制度が根本的に誤っているのは、ある人格にたいして不可逆的・恒久的に人間であることの権利を奪うからであるといえます。このような観点からいえば、たとえば人権との緊張関係を意識しない「厳罰化」の議論はつねに危うさをもっています。私たちの社会が「刑罰」をおこなうとき、それはほんとうは何のためであり、どのような意味をもっているのかを、問い直していく必要があるでしょう。
こんにちは。お返事が遅くなりました。黒井さんが書かれた記事は、この間、私もいくつか読ませていただいていました(引用していただいてありがとうございます)。私自身、この急坂を転がり落ちるような社会変動のなかで、なにができるのか、本当に悩み、絶望的な思いになることがあります。そして、ひとしきり苦しんだあとは、いつも同じ結論になります。それは、自分が「正しい」と信じることについて、とにかく考え続け、どんなことがあっても書き続けようということです(黒井さんがなさっていることも、それであると思っています)。言論は、たしかに「数」で圧倒されてしまうこともありますが、不思議なことに、たった一つの真摯な意見が、すべてを変えることもあります。もしそうならないとしても、いずれにしろ、生き残るためには、自分自身という最初の読者ために、書くしかないところがあります。ですから、どうか生き延びてください。一人のマイノリティが生き延びることと、社会を変えることは、ほとんど同じ意味なのです。私も、あらゆるマイノリティと、自分自身が生き延びるために、どんなに微力でも書き続けようと思います。
象徴的に言えば、「なんでも知ってる系ツイッターおじさん」の問題なのかもしれません。今朝ほどツイートしたことと関係しているのですが。https://twitter.com/A_laragi/status/779050406097752064?lang=ja
ネットで非専門家が部分的な情報をもとに、安易に何かを言ってよいようなケースではないと思いますが、客観的にみて現状は非常に危険ですので、一般論としてはいったん離婚や(それなりの長期の)別居による冷却期間をとるのが正攻法だと思います。
とはいえ、すでに行政や支援団体のプログラムは受けられているようですので(もし受けられていないのでしたら、まず必ずそれらを利用してください)、その上でということに話をしぼりますと、DV加害者向けの本は、大きめの書店やamazonで検索すればたくさんみつかるとおもいます。その種の本に書かれていることは、どれが"きっかけ"になるかは誰にもわかりません。ですから、心理臨床の現場ではいわゆる「折衷主義的」なアプローチが主流になっています。誰かにとってとてもよかった本が、他でうまくいく保証は何もありません。うまくいったらそれがあなたにとって"一番いい本"です。ですから、書店でピンときた本を何冊か買っていってあげるのがよいと思います。
「感動ポルノ」という言葉の用法について、私自身あまり掴めていませんのではっきりは言えませんが、フィクションについても同じではないでしょうか。大切なことは、感動的な作品、あるいは感動的な経験のなかに、別の角度からみると差別的な構図がふくまれている、という視点や認識だと思います。もちろん、それらと「感動」は両立しづらいのですが、あたかも「ルビンの杯」が、それを認識する人格において統一されており、したがって出口が存在するように、それらは和解しうるものでしょう。
私も遠い記憶のかなたで忘れてしまいましたので探しておきます。ひとまず補助線として、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社、2005年)の応答責任をめぐる議論などを読んでおくと、「考え方」のヒントにはなるとは思います。もう読まれていたらすみません。
少し前に別の方からご質問いただいた時の考えと、大きく変わってはいません。なお、下の回答について、twitter上で真摯に疑問を書いて下さった方がおられましたが、私のなかでも、まだうまく考えが詰め切れないでいます。
http://ask.fm/A_laragi/answers/136851983454
ご承知のとおり、近代スポーツも近代オリンピックも普遍的なものではなく、きわめて歴史的なものですし、近代(モダン)の論理をつきつめていくと、それ自体が内破され自壊してしまう、ということがありえるわけです。実際、0.01秒、1cmの精度で計測し、そのために心身を傷つけるほど徹底的でシステマティックな訓練を行なうプロを頂点とするヒエラルキーが、子どもたちの部活動にまで浸透している状況は、後の時代からみれば異様なものかもしれません。とはいえ、現実に今生きている私たちは、あるシステムのなかでしか、幸福を追求できない側面があり、また追求する権利があることも疑いのない事実です。私自身の考えを言えば、近代オリンピックは"縮小"されていくべきだと思います。しかし同時に、現在IOCが模索しているような、現行のシステムのなかでの試みも最大限になされるべきです。したがって、ご質問へのお答えは、Yes and no. ということになります。
先入観や誤った習慣をとりのぞき、さまざまな工夫や技術で対処ができないかどうかを丁寧に考えていけば、性別による固定的ないし半固定的な役割分業が妥当であるようなケースは、実際にはほとんどないと思います。「女性は男性に比べて体温変化が激しいから寿司職人には向かない」などは、問答無用に差別といえるでしょう。
これはFAQの類だと思いますが、男女に生物学的差異と呼んでもよいような"傾向"があるのは自明ですので、フェミニズムはそれを完全に無視しようと主張しているわけではないのです。問題は、それが現代社会において、固定的な性別役割分業のようなものを妥当、あるいは正当たらしむるのかということであって、そのことをていねいに考えていく必要があります。その場合、たとえば、男性が女性特有の病気の検診を受けることには意味がありませんが、「女は家で働くもの」「子育ては女性がするもの」といった役割分業には、先入観を振り払ってきちんと考えていけば、妥当性も正当性もない、ということになるでしょう。