「大喜利のプロ」が誕生するとしたらそれはどんな人だと思いますか?
どういう定義として「プロ」なのか、もしも「(プロのお笑い芸人さんや、何らかの作家やライター、俳優やミュージシャンなどの職業についている人達が余興的に大喜利をしてギャラを得られている、というのを除いて、)大喜利をすることのみで生計を立てられる程度の収入を得られる人」だとしたら、そんなのは現状で誕生しないと思います。
もしかしたら遠い未来にそういう生き方を出来る道が現れるかもしれない可能性はゼロだとは言い切れませんが、今の状況でそれは絶対ない、あと何年ってレベルで実現できるものではないと思います。
逆算して考えましょう。
仮に「大喜利のプロ」が存在し得るとして、その人はどれくらいの収入を大喜利で稼がないといけないかを。
それだけを稼ぐには、どれくらいのペースでライブに立って、どれくらいの数のお客さんを集めて、どれくらいのチケット代を得ないといけないか、あるいはライブ以外の方法(物販や、本屋ネットでの執筆活動など)で稼がないといけないかを。
現状の大喜利ライブ界隈において、「お金を払ってでもステージに出て、自分の大喜利を見せたい人」はそこそこ居るけど、「お金を払ってでもライブに足を運んで、人の大喜利を観たい人」はどれだけ居るのか、それが今後どれくらいの数と比率まで伸びれば、「大喜利のプロ」は存在し得るのかを。考えたら、絶望的だと思うのは自分だけではないと思います。
あと、基本的に自分たちが楽しんでいるアマチュアの大喜利はあくまでも自己表現や、仲間内や同好の士の中でのコミュニケーションという目的が先に立つべきものであり、対価を得て行う、人を楽しませるためのエンターテインメントという目的でやるものではないと思っています(※あくまでも基本的に。例外はいくらでもありますが)。
なので、自分の個人的な考えとしては、「お金を払って観る大喜利」「演者の人に対価を支払って、対価の分だけ楽しませてもらう大喜利」っていうのは、基本的に何かしらのプロの表現色をしている人達の、余興や、また違った角度からの表現を楽しませてもらうための大喜利という場で楽しませてもらいたいと思うし、「大喜利のプロ」があればいいのに、とか、そういう道を選べる人がいればいいのに、みたいなのは、全っ然思わないです。
もしかしたら遠い未来にそういう生き方を出来る道が現れるかもしれない可能性はゼロだとは言い切れませんが、今の状況でそれは絶対ない、あと何年ってレベルで実現できるものではないと思います。
逆算して考えましょう。
仮に「大喜利のプロ」が存在し得るとして、その人はどれくらいの収入を大喜利で稼がないといけないかを。
それだけを稼ぐには、どれくらいのペースでライブに立って、どれくらいの数のお客さんを集めて、どれくらいのチケット代を得ないといけないか、あるいはライブ以外の方法(物販や、本屋ネットでの執筆活動など)で稼がないといけないかを。
現状の大喜利ライブ界隈において、「お金を払ってでもステージに出て、自分の大喜利を見せたい人」はそこそこ居るけど、「お金を払ってでもライブに足を運んで、人の大喜利を観たい人」はどれだけ居るのか、それが今後どれくらいの数と比率まで伸びれば、「大喜利のプロ」は存在し得るのかを。考えたら、絶望的だと思うのは自分だけではないと思います。
あと、基本的に自分たちが楽しんでいるアマチュアの大喜利はあくまでも自己表現や、仲間内や同好の士の中でのコミュニケーションという目的が先に立つべきものであり、対価を得て行う、人を楽しませるためのエンターテインメントという目的でやるものではないと思っています(※あくまでも基本的に。例外はいくらでもありますが)。
なので、自分の個人的な考えとしては、「お金を払って観る大喜利」「演者の人に対価を支払って、対価の分だけ楽しませてもらう大喜利」っていうのは、基本的に何かしらのプロの表現色をしている人達の、余興や、また違った角度からの表現を楽しませてもらうための大喜利という場で楽しませてもらいたいと思うし、「大喜利のプロ」があればいいのに、とか、そういう道を選べる人がいればいいのに、みたいなのは、全っ然思わないです。
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