「ふつう」って、そんなに価値のあるものなんでしょうか・・・
価値のあるものではないですが無価値ではないです。
「常識(ふつう)」とは即ち、歴史の結晶でありますから。ミシェル・フーコーの系譜学ですね。
「私たちがあたりまえだと感じていること(常識/ふつう)は、歴史の中で段々とカタチ作られたものだ」とフーコーは言います。続けて、「そしてそれは、「今」正しいだけ」とも。
「絶対的不変の価値観というものは存在しない」と言い切っているわけですから、
そうなると「常識(ふつう)」ということは、長い目で見ていつかは変わってしまうことだから、あまり重要でないようにも思えてきますね。
けれどフーコーはそれとは別にこうも言っています。
「人間とは新たな「知の切り口」に通じた生物である」と。
新しい知の枠組みを大勢が獲得しない限り、「常識(ふつう)」の文脈が変わることはないんですよ。
大局的に見れば意味のないものかも知れませんが、それが歴史の結晶である以上、そのコミュニティに属している限りは逃れえぬ責任のようなものであります。甘んじるべき場面は多いでしょう。
「常識(ふつう)」とは即ち、歴史の結晶でありますから。ミシェル・フーコーの系譜学ですね。
「私たちがあたりまえだと感じていること(常識/ふつう)は、歴史の中で段々とカタチ作られたものだ」とフーコーは言います。続けて、「そしてそれは、「今」正しいだけ」とも。
「絶対的不変の価値観というものは存在しない」と言い切っているわけですから、
そうなると「常識(ふつう)」ということは、長い目で見ていつかは変わってしまうことだから、あまり重要でないようにも思えてきますね。
けれどフーコーはそれとは別にこうも言っています。
「人間とは新たな「知の切り口」に通じた生物である」と。
新しい知の枠組みを大勢が獲得しない限り、「常識(ふつう)」の文脈が変わることはないんですよ。
大局的に見れば意味のないものかも知れませんが、それが歴史の結晶である以上、そのコミュニティに属している限りは逃れえぬ責任のようなものであります。甘んじるべき場面は多いでしょう。