「着ぐるみの中の虐げられた世界にいたい」というのはMだと思うのですが、「着ぐるみ状態の自分を羨ましがる人がほしい」というのはSなのではないでしょうか?
ご質問、ありがとうございます。
こう言う質問は少ないので歓迎です。私の性癖について言うなら、仰るようにSとMの両方を内包しているとは思います。
SMについて私はそんなに熟知している訳では無いので、あまり偉そうな事を言うつもりは無いのですが、あくまでも私の感覚として、私の本質はSなんだろうなと思います。
元々私自身は自分はMなのだろうと認識していたのですが、ある時人から「とん太さんは屈折したSだよね」って言われた事があり、その時色々と合点がいったんですよ。
私は、Mと言いながら、縛られて身動きを奪われる事も、誰かに出入り口を管理される事も、ましてや誰かに呼吸の制限を管理される事なんかも、嫌だと思っていますし、それで興奮出来る自分は全く想像できませんでした。
つまり、自分でも、これでホントにMなのか?!って思っていたんです。
とは言え、着ぐるみの中で「息苦しく蒸され、小さい視界から外を見て、着ぐるみの身体と衣装により全身締め付けられながら動きにくい抵抗を与えられながら、可愛い女の子として何事も無かったかのように振る舞う」と言う行為にはとても興奮を覚えましたし、その中で快感を与えられながら「それを外には悟られないように頑張る」と言う行為にも凄く興奮しました(これらはInsideDoll型着ぐるみで網羅しています)。
その上、私の小説の話にもあるように、そう言う環境にいる人物がもし目の前にいた場合、私はその人を心底羨ましいと思い、変わってほしいと感じる。
これだけ聞くと相当マゾヒスティックな環境に興奮してますから、当初、自分はやはりMだと思っていたんですよ。
でも前述の通り「他人にされる強制」がダメなんです。生死にかかわる行為を他人に委ねる事にはむしろ恐怖すら感じます。興奮なんてとてもできません。
世の中にあるSMプレイの動画を見ると、ほぼこういう強制をされる側を「M」とし、強制をする側を「S」としている気がします。例外はあるのかもしれませんが私には見つけられませんでした。あれ?自分はMとは違うのかな?って思いました。
また、私のフェティッシュな世界観の中では、例えば小説に出てくる「成田君」や「羽田君」のような立場の人物が存在する事が理想的と言えます。
つまり、私のような着ぐるみの内部のマゾヒスティックな環境に興奮しながらも、立場上入れない上に、その着ぐるみをお世話する係り、が外にいる状態が必要なんですね。
目の前に「中に入りたいし、中の状態を体験してみたいし、その体験をする事できっと性的に興奮するであろう人物」を置きながら、自分だけがその環境を味わい、その人の前で「まるで何事も無いかのように振る舞い続ける」と言う行為。
外の人に苛められている、のではなく、それは紛れもなく、外の人を苛めてる行為、なんですよ。
あれれ、自分はMではなくS?って。
そこに「屈折したS」と言われ、この言葉がストンと自分の中に落ちたんですよね。
納得が行ったと言うか合点がいったと言うか。
なので、私は相当屈折したSで、その結果「自分もそうなりたいと願ってる人の前で、中で悶え苦しんでる様子を想像して貰い興奮しながら嫉妬して貰う」と言う行為に興奮するんだと思います。
もちろん、そもそも周囲に誰もいない状態で、着ぐるみに苛められる事は私のフェチの重要な部分ですが、重要なのは「着ぐるみに苛められている」であり別の第三者では無いって事。つまり「セルフ」って事。
マゾヒスティックな環境には、自身の意思で入り、自身の意思で出てくる。誰かからの強制では無い、と言う所がミソなんですね。全てセルフで成立する環境下でのマゾヒスティックな状態、には興奮を覚えると言えます。
唯一、誰かに委ねて興奮出来る部分があるとすればそれは性的快感の部分ですかね。
最近小説でも多用している「しっぽ」の描写は、誰かに弄られる事が前提ですから。
ただし、これも一つ大事なポイントは、弄ってる人が「中の人を性的に責めている」と言う認識が無いか、仮にあっても「本人はそう言う性的な責めをしたいと思っていない」に加えて「出来れば自分がそう言う責めを受けたい」と願っている人、と言う事です。
少なくとも「こいつが性的に悶え苦しんでいるのを外から見て楽しんでやろう」と考えている人がしっぽを弄る描写は、少なくとも私の小説には出て来ていませんし、多分今後もよほどの事情が無ければ出ません。
これが多分私が本質的にはMではなくSなんだろうな、と考え、屈折したSだと考える理由です。
そしてご質問者様の言う「着ぐるみの中の虐げられた世界に居たい」と言うのはMで、「着ぐるみ状態の自分を羨ましがる人が欲しい」と言うのはS、と言うのは、まさにその通りだと言う事です。
ただし「着ぐるみの中の虐げられた世界に居たい」については「自主的」に「セルフ」で、と言う前置きが無ければ私には興奮できない訳です。
外の人に苛められる、ではなく、着ぐるみに苛められる、であり、外の人は「そうなりたいけどなれない」立場であり、そう言う人達の前で自分だけがそう言う体験をしている事に優越感を覚える、と言うのがポイントです。
お分かり頂けるでしょうか?
と言う感じですかね。
こう言う質問は少ないので歓迎です。私の性癖について言うなら、仰るようにSとMの両方を内包しているとは思います。
SMについて私はそんなに熟知している訳では無いので、あまり偉そうな事を言うつもりは無いのですが、あくまでも私の感覚として、私の本質はSなんだろうなと思います。
元々私自身は自分はMなのだろうと認識していたのですが、ある時人から「とん太さんは屈折したSだよね」って言われた事があり、その時色々と合点がいったんですよ。
私は、Mと言いながら、縛られて身動きを奪われる事も、誰かに出入り口を管理される事も、ましてや誰かに呼吸の制限を管理される事なんかも、嫌だと思っていますし、それで興奮出来る自分は全く想像できませんでした。
つまり、自分でも、これでホントにMなのか?!って思っていたんです。
とは言え、着ぐるみの中で「息苦しく蒸され、小さい視界から外を見て、着ぐるみの身体と衣装により全身締め付けられながら動きにくい抵抗を与えられながら、可愛い女の子として何事も無かったかのように振る舞う」と言う行為にはとても興奮を覚えましたし、その中で快感を与えられながら「それを外には悟られないように頑張る」と言う行為にも凄く興奮しました(これらはInsideDoll型着ぐるみで網羅しています)。
その上、私の小説の話にもあるように、そう言う環境にいる人物がもし目の前にいた場合、私はその人を心底羨ましいと思い、変わってほしいと感じる。
これだけ聞くと相当マゾヒスティックな環境に興奮してますから、当初、自分はやはりMだと思っていたんですよ。
でも前述の通り「他人にされる強制」がダメなんです。生死にかかわる行為を他人に委ねる事にはむしろ恐怖すら感じます。興奮なんてとてもできません。
世の中にあるSMプレイの動画を見ると、ほぼこういう強制をされる側を「M」とし、強制をする側を「S」としている気がします。例外はあるのかもしれませんが私には見つけられませんでした。あれ?自分はMとは違うのかな?って思いました。
また、私のフェティッシュな世界観の中では、例えば小説に出てくる「成田君」や「羽田君」のような立場の人物が存在する事が理想的と言えます。
つまり、私のような着ぐるみの内部のマゾヒスティックな環境に興奮しながらも、立場上入れない上に、その着ぐるみをお世話する係り、が外にいる状態が必要なんですね。
目の前に「中に入りたいし、中の状態を体験してみたいし、その体験をする事できっと性的に興奮するであろう人物」を置きながら、自分だけがその環境を味わい、その人の前で「まるで何事も無いかのように振る舞い続ける」と言う行為。
外の人に苛められている、のではなく、それは紛れもなく、外の人を苛めてる行為、なんですよ。
あれれ、自分はMではなくS?って。
そこに「屈折したS」と言われ、この言葉がストンと自分の中に落ちたんですよね。
納得が行ったと言うか合点がいったと言うか。
なので、私は相当屈折したSで、その結果「自分もそうなりたいと願ってる人の前で、中で悶え苦しんでる様子を想像して貰い興奮しながら嫉妬して貰う」と言う行為に興奮するんだと思います。
もちろん、そもそも周囲に誰もいない状態で、着ぐるみに苛められる事は私のフェチの重要な部分ですが、重要なのは「着ぐるみに苛められている」であり別の第三者では無いって事。つまり「セルフ」って事。
マゾヒスティックな環境には、自身の意思で入り、自身の意思で出てくる。誰かからの強制では無い、と言う所がミソなんですね。全てセルフで成立する環境下でのマゾヒスティックな状態、には興奮を覚えると言えます。
唯一、誰かに委ねて興奮出来る部分があるとすればそれは性的快感の部分ですかね。
最近小説でも多用している「しっぽ」の描写は、誰かに弄られる事が前提ですから。
ただし、これも一つ大事なポイントは、弄ってる人が「中の人を性的に責めている」と言う認識が無いか、仮にあっても「本人はそう言う性的な責めをしたいと思っていない」に加えて「出来れば自分がそう言う責めを受けたい」と願っている人、と言う事です。
少なくとも「こいつが性的に悶え苦しんでいるのを外から見て楽しんでやろう」と考えている人がしっぽを弄る描写は、少なくとも私の小説には出て来ていませんし、多分今後もよほどの事情が無ければ出ません。
これが多分私が本質的にはMではなくSなんだろうな、と考え、屈折したSだと考える理由です。
そしてご質問者様の言う「着ぐるみの中の虐げられた世界に居たい」と言うのはMで、「着ぐるみ状態の自分を羨ましがる人が欲しい」と言うのはS、と言うのは、まさにその通りだと言う事です。
ただし「着ぐるみの中の虐げられた世界に居たい」については「自主的」に「セルフ」で、と言う前置きが無ければ私には興奮できない訳です。
外の人に苛められる、ではなく、着ぐるみに苛められる、であり、外の人は「そうなりたいけどなれない」立場であり、そう言う人達の前で自分だけがそう言う体験をしている事に優越感を覚える、と言うのがポイントです。
お分かり頂けるでしょうか?
と言う感じですかね。