@A_laragi

あらら

小説や漫画などの創作物に、例えばセクハラがギャグとして描かれていたり、「女の子って○○だよね」のような軽い(軽いという表現もおかしいと思いますが)セクシズムがあったとして、それはセクシズムである限り差別であることは間違いないと思うのですが、そのような表現のある創作物をゾーニング無しに存在を許容することと、ある書店にヘイト本が置いてあることを抗議することは両立できるでしょうか? もし排除するかしないかを差別の程度で判断するとなると、妥当な線引きは難しいと思うのですが、どうしたらいいのでしょう。(丸投げですみません)

差別そのものと、差別の存在を前提とするもの(とくに過激でない漫画やイラストやアート等の"表現")を分けて考えられた方がよいかもしれません。私は、この社会の差別を前提として成り立っている表現については、「批評」や「批判」をすればよいものであって、それそのものを「差別」と同一視すべきではないと思っています。では、私がなぜ、ある種の「反批判」や「告発の無効化」に対しては厳しく接するかというと、「差別という方が差別」「批判すべきではない」といった言説は、"差別のあらわれ"であるにすぎない表現自体と異なり、ある表現の前提となっている"差別そのもの"を覆い隠し否認する性格を強くもっているからです。「ヘイト本」は、それ自体が差別扇動の起点となっていますから、撤去が妥当です。一方、差別の構造の一部をなしているにすぎない表現については、対抗言論が適切で、次にゾーニングを考え、規制については原則的に考えるべきでないと思います。

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日本では、(犯罪やいじめの)被害者だけでなく加害者へのバッシングも深刻だと感じるのですが、どう思われますか? 加害者に対しては「悪いことをしたのだから何をされても仕方ない」という心理からか、行き過ぎた言動が多く見られる気がします(例えば「どうせ更生しないのだから死刑にしてしまえ」「加害者に人権はない」など)。 人権問題に敏感な人であってもこのような言説を唱えていたり、TwitterでいいねやRTをしていることに疑問を感じます。

社会的批判は市民社会にとって欠くべからざる機能ですから、一定当然かと思われますが、基本的人権はどんな人にも認められなければなりません。これが大原則です。たとえ、やむにやまれぬ理由で部分的に制限されるとしても、それはあくまで"イレギュラー"な状態であり、望ましいことでは決してありません。死刑という制度が根本的に誤っているのは、ある人格にたいして不可逆的・恒久的に人間であることの権利を奪うからであるといえます。このような観点からいえば、たとえば人権との緊張関係を意識しない「厳罰化」の議論はつねに危うさをもっています。私たちの社会が「刑罰」をおこなうとき、それはほんとうは何のためであり、どのような意味をもっているのかを、問い直していく必要があるでしょう。

黒井みふ子という名前ではてなブログを書いているものです。申し訳ございません、今回あららさんのツイートを引用させていただきました。 このたびの議論をTwitterという場ですること自体に大変な徒労感を覚えるのですが、かといって放っておくわけにもいきません。どなたかが仰っていたようにトランスフォビアが非難されるべきフォビアとしてではなく、ありうる「一つの意見」として今後のインターネット空間に定着していきそうなことを強く恐れます。どうしたら……

maisya444’s Profile Photoドキン嬢(まいしゃ
こんにちは。お返事が遅くなりました。黒井さんが書かれた記事は、この間、私もいくつか読ませていただいていました(引用していただいてありがとうございます)。私自身、この急坂を転がり落ちるような社会変動のなかで、なにができるのか、本当に悩み、絶望的な思いになることがあります。そして、ひとしきり苦しんだあとは、いつも同じ結論になります。それは、自分が「正しい」と信じることについて、とにかく考え続け、どんなことがあっても書き続けようということです(黒井さんがなさっていることも、それであると思っています)。言論は、たしかに「数」で圧倒されてしまうこともありますが、不思議なことに、たった一つの真摯な意見が、すべてを変えることもあります。もしそうならないとしても、いずれにしろ、生き残るためには、自分自身という最初の読者ために、書くしかないところがあります。ですから、どうか生き延びてください。一人のマイノリティが生き延びることと、社会を変えることは、ほとんど同じ意味なのです。私も、あらゆるマイノリティと、自分自身が生き延びるために、どんなに微力でも書き続けようと思います。

反原発でならした論客が、時を経て性差別などの領域で差別意識を露わにしぼろぼろになっていく事例に事欠かないのですが、何が原因なのでしょうか。

象徴的に言えば、「なんでも知ってる系ツイッターおじさん」の問題なのかもしれません。今朝ほどツイートしたことと関係しているのですが。https://twitter.com/A_laragi/status/779050406097752064?lang=ja

DV家庭育ち、20年悩んでる30代男性です。父母とも精神疾患で通院中、医師は共依存と診断。子として10代の早い段階から被害者の話を傾聴、病院に連れて行き、抵抗し、諭し、手当てし、行政・支援団体の情報を教え、色々やってきました。問題は改善せず警察沙汰にもなり、被害者の自殺未遂に発展してます。 私自身、ストレスで精神疾患を抱え、特に自殺未遂の緊急対応後の反動が酷く病状が悪化してます。父母の問題の受け皿になるのも、そろそろ限界です。 当事者に離婚は選択になく、加害者更生しか道がなさそうです。 加害者自身に更生の意思があるのはまだ幸いですが、何か、加害者向けの書籍などご存知ないですか?

ネットで非専門家が部分的な情報をもとに、安易に何かを言ってよいようなケースではないと思いますが、客観的にみて現状は非常に危険ですので、一般論としてはいったん離婚や(それなりの長期の)別居による冷却期間をとるのが正攻法だと思います。
とはいえ、すでに行政や支援団体のプログラムは受けられているようですので(もし受けられていないのでしたら、まず必ずそれらを利用してください)、その上でということに話をしぼりますと、DV加害者向けの本は、大きめの書店やamazonで検索すればたくさんみつかるとおもいます。その種の本に書かれていることは、どれが"きっかけ"になるかは誰にもわかりません。ですから、心理臨床の現場ではいわゆる「折衷主義的」なアプローチが主流になっています。誰かにとってとてもよかった本が、他でうまくいく保証は何もありません。うまくいったらそれがあなたにとって"一番いい本"です。ですから、書店でピンときた本を何冊か買っていってあげるのがよいと思います。

よく感動ポルノ、感動の消費と批判されるマイノリティの境遇をフィクションとして楽しむことの是非(内容が差別的でないことは前提として)はどのように語ればいいのでしょうか? ドキュメンタリーなどのノンフィクションは、場合によって是々非々で語っていくしかないのかな、と思ったのでここではフィクションに限った質問とさせてください。

「感動ポルノ」という言葉の用法について、私自身あまり掴めていませんのではっきりは言えませんが、フィクションについても同じではないでしょうか。大切なことは、感動的な作品、あるいは感動的な経験のなかに、別の角度からみると差別的な構図がふくまれている、という視点や認識だと思います。もちろん、それらと「感動」は両立しづらいのですが、あたかも「ルビンの杯」が、それを認識する人格において統一されており、したがって出口が存在するように、それらは和解しうるものでしょう。

こんにちは。ツイートで仰っていた「差別だと告発する人がいたらそこには差別がある」という考え方が書かれた本、読んでみたいのですが もし良ければ書名を教えて頂けないでしょうか。よろしくお願いいたします。

私も遠い記憶のかなたで忘れてしまいましたので探しておきます。ひとまず補助線として、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社、2005年)の応答責任をめぐる議論などを読んでおくと、「考え方」のヒントにはなるとは思います。もう読まれていたらすみません。

沖縄の基地問題について、本土側が責任を取り県外移設を受け入れるべき、という考えはどう思われますか?

少し前に別の方からご質問いただいた時の考えと、大きく変わってはいません。なお、下の回答について、twitter上で真摯に疑問を書いて下さった方がおられましたが、私のなかでも、まだうまく考えが詰め切れないでいます。
http://ask.fm/A_laragi/answers/136851983454

オリンピックへの性分化疾患の方の出場に関する意見を読んだのですが(http://www.nexdsd.com/#!one-track-minds/j22za)、これは”個人の性自認を尊重する”という立場と”公平を期すために身体的な性別で区別する”という立場がある段階で相容れなくなっているから起こっているのだと思うのです(もちろん彼女らへのバッシングを肯定している訳ではありません)。 この記事中にもあるような「スポーツの男女の区別は無くすべき」という立場についてはどうお考えですか?

ご承知のとおり、近代スポーツも近代オリンピックも普遍的なものではなく、きわめて歴史的なものですし、近代(モダン)の論理をつきつめていくと、それ自体が内破され自壊してしまう、ということがありえるわけです。実際、0.01秒、1cmの精度で計測し、そのために心身を傷つけるほど徹底的でシステマティックな訓練を行なうプロを頂点とするヒエラルキーが、子どもたちの部活動にまで浸透している状況は、後の時代からみれば異様なものかもしれません。とはいえ、現実に今生きている私たちは、あるシステムのなかでしか、幸福を追求できない側面があり、また追求する権利があることも疑いのない事実です。私自身の考えを言えば、近代オリンピックは"縮小"されていくべきだと思います。しかし同時に、現在IOCが模索しているような、現行のシステムのなかでの試みも最大限になされるべきです。したがって、ご質問へのお答えは、Yes and no. ということになります。

男女区別の妥当性についての質問の回答を見て思ったのですが、では「女性は男性に比べて体温変化が激しいから寿司職人には向かない」といった言説は「妥当」なものに分類されるのでしょうか?わたしには女性差別的に思えるのですが。

先入観や誤った習慣をとりのぞき、さまざまな工夫や技術で対処ができないかどうかを丁寧に考えていけば、性別による固定的ないし半固定的な役割分業が妥当であるようなケースは、実際にはほとんどないと思います。「女性は男性に比べて体温変化が激しいから寿司職人には向かない」などは、問答無用に差別といえるでしょう。

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