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フクモリ

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高橋優さんの歌詞について正直な感想を綴っているブログを読みました。 私は高橋優の大ファンですが、私と全然違う目線からの感想だったのでとても新鮮でした。 難しくて言葉にできませんが、尊敬します。 もしよければ、最近の高橋優の歌詞についての感想をお願いします。 明日はきっといい日になる、産まれた理由、など よろしくお願いします(>人<;)

結花
質問ありがとうございます。最近の曲はまだちゃんと聴いてなくて、近々聴こうと思っていたところです。時間ができればブログに書こうと思います。

29歳男です。現在、契約社員で働いていて会社で隣の席の一つ上の男に嫌がらせをうけています。内容は挨拶をしても無視したり、自分の私物をこちらの席にまで置いたり用があるときは喧嘩腰で話しかけてきます。初めから自分のことが気に食わなかったらしかったです。席を替えてくれと2回も上には伝えたのですが(向こうもいってたみたいです。)女の人の意見はすぐ通すのに男は意見が通らないことが多く未だに替えて貰えず、最近腸炎にまでなってしまいました。今年の3月契約更新日ですがとても更新まで我慢して働く気力も沸きません。どうしたらいいでしょうか?

文面を読む限りでは、仕事を休むか、辞めたほうがいいんじゃないかと思います。
無理をして、体と心が壊れてしまうと、治るまで時間がかかります。仕事を辞めても転職活動すらできません。
気合と根性で乗り切るという方法もあります。自分の意見を強く主張する、思い切ってキレてみる、など、色々なパターンはあります。それでなんとかなる可能性もあります。――が、そういう行いができるほど、メンタルに余裕があるかというと、腸炎になっていることやaskfmに書き込みをしていることから、難しいのではないかと察します。
そう簡単に仕事を辞めたり休んだりすることはできないかもしれませんが、体と心が壊れてしまうと、再復帰は難しいです。そうなる前に、自分の中にまだ余力があるうちに、現状を変える行動をとったほうがよいかと思います。
以上です。参考になれば幸いです。

友達を傷つけてしまったかもしれません。私は他人に対していらない一言を言ってしまう癖があります。それは自分の取るに足らない虚栄心からだと思います。最近気づきました。自分の知らない間に信頼感を落としてしまったのではないかと思うと、友人に対して申し訳ない気持ちと、恐怖心でいっぱいです。どうしたら事態が良くなるでしょうか。私はその友人に対していまさらどんな態度をとって接すればいいのかわからなくて、とても辛いです。

ここに書いたことを友人に伝えてみる、というのはどうでしょうか。
正直に、自分の思っていることを伝えてみる。ここに書いてくださった、「申し訳ない気持ち」「恐怖心」「虚栄心」「辛い気持ち」…これらを直接本人に伝えてみる、そうすることで前へと進めるかもしれません。友人ならわかってくれると思いますよ。友人とは何か?、それは『なんでも言い合える仲』だと僕は思います。

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今現在の悩みは20歳の時の悩みより深刻ですか?

いくつになっても、今が一番深刻です。。。
Liked by: 都子

なんとなくさみしい時、ありますか。 そういう時どうしますか。

なんとなくさみしい時、ありますよ。一人でカップ麺をすすってる時とか、大晦日を一人で過ごしている時とか、さみしさが込み上げてくることがあります。そういうときは、自分の目標や志、夢などを思い出します。そして、それに向けてがんばることで、さみしさをかき消そうとします。

ask.fmの記事とても分かりやすかったです。ありがとうございました。

ありがとうございます。
でも最近、デザインが大幅に変わったので、少し書きなおさないといけないなぁと思います。
Liked by: 都子 ★m★

こんにちは。私は、自分がいないところで自分の話をされることにとても恐怖を感じます。多分、昔クラスメイトに陰口を叩かれた経験があるからだと思います。自分がどうすることもできないことで悩むのは馬鹿馬鹿しいと、頭ではわかっているのですが、感情をうまく処理できません。宜しくお願いします。

自分のいないところで陰口を言われるのはキツイですよね。
参考にならないかもしれませんが、私の場合は、直接聞きに行きます。「何か言ってた?」「何か用?」「なんでそんなこと言うの?」って、直接、相手に言います。ケンカも辞さない覚悟で聞きます。自分が正しいと思っているなら、胸をはって言うようにしています。
これは一見すると、勇気ある行動にみえるかもしれませんが、その全く逆で、『陰で言われることが、無茶苦茶コワイ』から、気持ちの面で楽になりたくて、そういう行動を取っています。ケンカしてツライ思いをするよりも、陰で言われ続けるほうがツライです。
「人からどう思われているか」、心配で気になるときも、直接聞きます。「どんなふうに思っていますか?」「どんな人間だと思いますか?」など、直接相手に聞きます。そうすれば、すぐにわかります。
陰口を言われることのしんどさは、相当なものだと思います。『直接言ってこないで陰口を言う人は、たいした人間じゃない。だから、無視しておけばいいんだよ』――といった方法もありますが、陰口に耐え続けるチカラは私にはありません。器用に無視するチカラも自分にはありません。だから、直接相手に言うしか方法がありません。
もしくは、逃げます。環境を変えます。相手が自分に近寄れないくらい遠くに逃げます。具体的には、引っ越します、職場を変えます、などなど。これは大袈裟ではなく、そういった方法も大事だと僕は思います。それくらい「陰口に耐えること」は大変なことだからです。
以上、まったく参考にならなかったと思いますが、自分の場合について書いてみました。質問、ありがとうございました。

いつも楽しくブログやYou Tubeを拝見させていただいております。 突然ですが、私は歌うことが大好きです。曲も作ってみたいな~、You Tubeに自分の作った歌をあげてみたいな~、なんて思います。どこか遠くに住む私とよく似た誰かさんには、私の曲を聞いてほしい、願わくばその人が共感なんかしてくれたらとても嬉しいなとか思う。でも家族とか友人とかに、曲を作ってYou Tubeにあげてるってことが知られたらなんとなく恥ずかしい。福森さんは、ブログでもYou Tubeでも自分の考えをありのままに発信していてすごく勇気があるなと思って尊敬してます。最初、怖くなかったですか?

最初はもちろん緊張しました。いまでも緊張します。また、いまだに恥ずかしいです。慣れることはできなさそうです。
何が楽しくて、わざわざこんなことやってるんだろう、と思うときもあります。家族や友人に知られるのももちろん恥ずかしいですし、職場の人にバレると仕事上なにかと面倒です。ネットに自分の思いを綴ったり、動画で何かを表現することは、ある種の、リスクがつきまといます。ネットの記録は一生残りますし。
では、なぜブログやyoutubeで発信するかというと、
ボクの場合、おそらく、寂しいからでしょうね。誰かにかまってもらいたい、誰かに自分のことを見てほしい、認めてほしい、と思っている。でも、だまっているだけでは誰も見てくれない、だから、気づいてもらうために、バタバタとあがいている。「こっちこっち!」って、必死で手をふっているような感じです。
僕がyoutubeやブログをやっているのは、そういう「小心」が発端です。根本にあるのは、寂しがり屋の承認欲求です。しかし、僕にとって、それは死活問題なのであり、何より優先的に解決しなければならないことでした。
そしてもうひとつ。例えばyoutubeで何かをしゃべることは、恥ずかしいし、とても怖いのですが、それ以上に、「どうしても自分はこのままでは終われない」と思っています。誰かに見てもらいたい、これは言い換えると、自分を見てほしい、ということです。いわゆる「エゴ」。僕は臆病で寂しがり屋な「小心」と、もうひとつ、「エゴ」も持っています。自分の思っていることを表現したい、そしてそれを人にみてほしい、承認欲求だけでなく、表現欲求ももっています。
以上が、僕がyoutubeやブログをやっている理由、根っこの部分です。人よりも少しだけ強い承認欲求、ちょっとだけ自意識過剰、ヒトに見てほしいというエゴイスティックな表現欲求……これらは、ネット上でいろいろな活動ができる資質かもしれません。これらをもっている人は、たとえ怖くても恥ずかしくても、最終的には実行する人だと思います。
そうはいっても、バレたくない人もいるかと思います。僕にもいます。が、バレたらバレたで仕方ないと思っていますし、そのときはそのとき、別に悪いことをやっているわけではないので、自分が正しいと思っているなら胸をはればいい、と思っています。
歌、ということですが、別に顔をださなくてもいいですし、最近では、“一人カラオケ”をiPhoneで撮影して、たくさんのファンを獲得している人もいます。最初は無理せず、リスクを減らして、簡単なところから始めてみてはいかかでしょうか。
参考になれば幸いです。質問、ありがとうございました。

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小説を書いています。需要のないオリジナル作品を発表することに意味はあるのかと自己嫌悪に陥っています。流行しているアニメや漫画の二次創作の方がオリジナルのものよりも観覧数も評価も高く、そんな現実が辛いです。どうすればいいでしょうか。

需要よりも、自分が書きたいことであり、尚且つ、自分の得意な分野を重視したほうがいいのではないか、と思います。
需要に合わせて自分のスタイルを変化させるのって、相当なセンスがなければ難しいんじゃないかと思います(ものすごく器用な人なら可能かもしれませんが……)。
また、今は需要があっても3年後には人気がなくなっていたり、逆に、今は需要がなくても3年後には大人気になっていたり、と、需要は一定ではないと思います。「今の需要」を考えるより「この先の需要」――「この先、こういう分野がゼッタイにくる」「自分が実現する」という精神性でいるほうが、創作者としては健全な気がします。
刻々と移り変わる需要を読み、需要に合致する作品を目指すことって、かなり疲れると思います。結句、書かなくなってしまう、あるいは、書けなくなってしまう――となると、それは大変勿体ないと思います。
「たくさんの人に読んで欲しい」という気持ちが強くなりすぎると、「今すぐ実現したい」という思いに駆られます。が、「時間をかけて育む」、焦れったさと向き合うことも、たくさんの人に読んでもらうための道程ではないかと思います。
えらそうなことを書きましたが、すべて、僕が自分に向けて言ってやりたい言葉です。質問ありがとうございました。

Queenがすきです。好きな歌手はいますか。

二十代の頃は、エレファントカシマシを好んで聴いていました。

人生で、何を成し遂げたいですか。

そういうのがあればいいんですけど、最近はそういった意識が弱ってきて、いろいろと迷っています。

福森さん、自分と似ています。 いや、自分は福森さんと似ています。

ありがとうございます。とりあえず、光栄に思っておきますね。

こんにちは。あなたのブログはとても面白く、そしてとても考えさせられるものばかりで楽しいです。 質問です。うちは現在、通信制の高校に通っていますが将来の夢がありません。通信制なので学校へ行くのは週に2回。友達もできる気配がありません。このまま3年間通い続けることに自信がなくなってしまいました。もうすぐ後期のスクーリングが始まりますが、どうすれば学校へ行く気力が湧いてくると思いますか?

んー難しくて簡単に答えられないのですが、一般的なことをいうと「卒業はしておいたほうがいい」です。後々将来、「学校はおもしろくなかったけど、とりあえず卒業しておいてよかった」と思うことがあるかもしれません。大人になったら行きたくても学校には行けない、学校に行けるのは今だけですし。
――と、これは一般的な大人の回答で、そして、おおむね正しい回答だと私は思っています。できれば卒業しておいたほうがいい。学校を卒業しなくて後悔している大人もいます。
あと、学校はそもそも面白いところではないですよ。私の場合、午前中は図書館で時間をつぶして、昼から高校に行ってました。友達もいなかったし、おもしろいと思ったことなんて一度もないです。でも、「学校に行かない理由」も別にない。正確には、学校よりも夢中になれるものがありませんでした。だから、「なんとなく」学校に行って、卒業しました。もし、学校よりも夢中なことがあったら、学校をやめていたかもしれませんが、そういう人ってあまりいないと思います。
今はつまらないかもしれませんが、なんとなく通っているうちに、何かおもしろいことがあるかもしれません。また、今は学校がつまらなくても、大人になって高校のときを振り返ってみたとき、「大事な思い出」になっていることもあります。
みんな、なんとなく学校に通っているだけです。学校に行く気力とか、そこまで深く考えていないと思いますよ。もう一度いいますが、僕は学校なんて面白いと思ったことは一度もなかったです。学校に面白さとか求めても仕方ないです。友達と楽しそうに話している同級生もいると思いますが、そんなことは気にせず、淡々とマイペースで学校に行ってみてはどうでしょう。私はそうでしたよ。
参考なれば幸いです。

プロフィール画像、なんで頭抱えてるんですか

特に意味はないです。なんとなくこの画像が好きだったので…。ずっとこの画像だったので、そろそろ変えたいなぁと思います。

フォロワーの確認とかできないんですかね?

フォロワー数の確認はできますが、だれがフォローしてくれるかなどはわからないですね。。。

一度質問したらその質問は削除できないのでしょうか?

いまのところ質問は削除できないようです。

東南アジアのどこに行っているんですか?

マレーシア ⇒ シンガポール ⇒ タイ ⇒ カンボジア ⇒ ベトナムとまわって、昨日帰国しました。

askのプロフィールの名前を変えたいのですがどうしたらいいですか?始めたばかりです、、 こんな質問ですみません。

パソコンの場合は、右上の[設定]⇒[プロフィール]⇒[名前]。
スマホ(アプリ)の場合は、自分の[プロフィール]ベージ⇒フォロワー数の隣にある[歯車マーク]⇒[プロフィール]⇒[フルネーム]。(※画像参照)
これでいけるかと。ちなみに、[ユーザー名]は変更できませんのでご注意を。
参考になれば幸いですー。

かつてひどい仕打ちをされて未だに怨んでいる相手がいます。その人の現在の職場を知ってしまいました。当時私は善人ぶり何も仕返しをしませんでした。そのせいか、憎しみが何年経っても消えません。すみません、私が望むのは世の中から憎しみという感情をなくすことではなく、私の全く個人的な憎しみの感情を、どうにかコントロールして、最終的には終わりを迎えたい、ということです。いろんな本を読んで自分なりに気持ちに落とし前をつけたつもりだったのに、些細な出来事で振出しに戻り、また愚かな復讐心に苛まれます。福森さんは許せないだれかを、どういう方法で許してきましたか。

一概に述べられることではないので、「あくまで私(福森)の場合はどうであるか」、について書かせていただきます。
“憎い相手をどうやって許してきたか”――。
人を「許す」ということがボクの場合、ほとんどなかったかもしれません。
たとえば、その憎い相手が、謝罪してきたというなら「許す」ということもありますが、そういったことは滅多にない。なので、「許す」という場面は、ほとんどないです。
ちなみにボクは、何か嫌なことがあると、根に持つタイプで、ずっと覚えています。そのときの景色、匂い、声、表情、音…細かいところまで鮮明に記憶しています。たまに思い出しては、「悔しくて寝れない」ということもあります。それを「許す」ことなんて、ボクにはなかなかできません。自分の過去に対する憎悪は、そうそう簡単に消えることはないと思っています。ひょっとしたら一生残り続けることだってありえる。
では、「許す」ことができない場合、憎む気持ちをどうすればよいか?
ボクは、2つに分けて、その思いを整理、昇華させています。
※以下、①と②に分けて書きます。
①「憎い」「悔しい」という強大なエネルギーを別の方向に活かす
自分で言うのもなんですが、、、ボクはこれがとても得意です。
「悔しくて寝れない」ということがなかったら、ボクは今の今までがんばってこれなかったとさえ思っています。「うれしい」「たのしい」だけでは、ここまで来れなかった。しんどいときに、ふんばることができなかったと思います。
「あいつを絶対に見返してやる」という復讐心をモチベーションに、がむしゃらにがんばったこともあります。それは今だにあります。今だに「あいつだけは許せない」はあります。
はたして、それが良いのか悪いのかは、わかりませんけども、自分の中で沸き上がってくる強大なエネルギーを、「憎悪」としてただ溜め込むのではなく、別方向に放出させること――これは間違いなく、私が行動を起こす“ひとつの原動力”となっています。
なので、「憎悪」「復讐心」という感情をボクはとても大切にしています。イコール、それがボクの行動力となっているからです。
また、憎い人の顔が、ふいに思い出されてしまったとき、それは何かしらのサインである可能性が高い。腑抜けている自分、あるいは、ありふれた怠惰な日常に対する警笛であると解釈して、憎いという感情を、とことん“活かしてやろう”、“利用してやろう”とボクは考えます。――“悔しさをバネに”などというと、それは安っぽく聞こえるかもしれませんが、極端なことを言って、“悔しさ以外にバネとなるものなんてあるのだろうか?”とさえ思います。
要は、それくらいに憎悪という感情は貴重で、こんなにも強いエネルギーは滅多になくて、それをできるだけ良い形で、何かに活かすべきだ、そういうふうにボクは考えております。
②そんなことを忘れてしまうほどの「楽しいこと」「幸せなこと」を求める
“あれほど嫌だったのに、いつの間にか忘れていた”、ということがあります。
これは、嫌な過去が決して消えてしまったわけではなく、そんなことを忘れてしまうほどの「楽しいこと」「幸せなこと」があったからだろうと思います。憎しみを覆い隠せるほど、「楽しいこと」「幸せなこと」があれば、過去の嫌なことを忘れることができます。
これは言い換えれば、「忘れる」という形で「許す」ということなのかもしれません。もし、「許す」ということを重視するのなら、これがそれに近いやり方ではないかと思います。「今が幸せであるなら、嫌だったことも許せる」、このようなことが、いくらかは実際にあるだろうと思います。
“憎しみを忘れ、相手を許すにはどうすればよいか?”――そんなことを忘れてしまうほどの「楽しいこと」「幸せなこと」を、積極的に追い求める、そちらを追求してみる。
また、他者を憎んでしまう心があっては、気分も悪く、「楽しいこと」「幸せなこと」が遠ざかっていってしまうので、忘れるその日まで、心の片隅にでもそっと静かに置いておくこと。
「楽しくって、いつの間に忘れていた」、こういうのも、なくはないですよ。先の①と比べ、これは平和的で健全であろうと思います。
***
以上です。これはあくまでもボクの場合です。
根強く残り続ける憎悪もあれば、徐々に薄れていく憎悪もある。今回は①と②を書きましたが、いずれにせよ、憎悪という感情を軽蔑したものではありません。むしろ、その感情が生み出す、新たな可能性に目を向けています。決して無価値の感情ではないと思います。
何かの参考なれば幸いです。では。

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人間は何かが起きた後からでしか改善策を探すことができないのでしょうか?予防や予測もできないこの世の中が悲しくなります。

たとえば災害や事故などがその典型かと思いますが。
“何かが起きた後からでしか改善策を探すことができない”、これは、どうしてもそうなるかと思います。歴史はそうやって積み重ねられ、人はそうして学んできたのだと思います。その歴史の先端に我々がいて、これからもそれはずっと続いていく。悲しいですが、“悲しいからこそ”、学ぼうとする、学ぶことができるのだと思います。そうやって歴史は、現代の我々にまで引き継がれているんじゃないでしょうか。
また、見方を少し変えてみるのですが。予防や予測ができないのは、悲しいことばかりではなく、嬉しいこともそうだろう思います。事前にわかっていたら、ほとんどのことって、うれしくないです。予想ができないから、うれしいと思える。笑いも起こる。
どうすることもできない悲しみがあると同時に、たとえば人が産まれるなどの、言葉にできない喜びも存在している。世の中には正負、両側面あるので、悲しみばかりではないのは、ご承知かと思います。
「正もあれば負もある、負もあれば正もある」、あるいは、「正があるから負がある、負があるから正がある」というふうに、偏らず、バランスや関係性でもって、一つの或る事象を捉えていこうと、ボクとそう考えています。
何かの参考なれば。ありがとうございます。

何かやってみたいことがあれば教えてください!!!

平凡なことでいいんですけども、たとえば、美術館に行って絵をみるとか。(今すぐにできますが…。)大好きです、そういうの。ふつうに楽しめること。
あとは、海外に行きたいですね。いろいろと見てまわりたいです。
他にもやりたいことはたくさんあるんですけど、、、言葉にするのが苦手で。やりたいことを公言できる人ってすごいなぁと思います。
以上、少ないですが、こんな感じです。

気になる人はいますが、その人が本当に好きなのかがわかりません。生きていきてずっとわかりません。その人が近づいたら嬉しいはずが、逆に遠ざけてしまうような瞬間がありつらいです。どう克服したらいいですか?

自分の気持ちは自分ではわからない、ということがあるので、「自分のことをよく知っている人」、たとえば信頼のおける友人などに聞いてみるのはどうでしょうか。客観的に観察ができるぶん、友達(他者)のほうが自分(私)のことをよく知っていることがあります。動揺し、不安定なときほど、盲目の状態ですので、他人のアドバイスは貴重です。シンプルですが、「友人に相談する、話を聞いてもらう」、これだけで全然進んでいなかったことが、すんなり動き始めることは往々にあります。
また、ここまでは“自分”の気持ちについてですが、“相手”の気持ちはどうであるか。というのも、“相手”の気持ちによって、“自分”の気持ちは変化するものだからです(むしろそれによって決定づけられることもあって)。なので、相手はどう思っているか、これも並行して考えてみるといいかもしれません。
“逆に遠ざけてしまうような瞬間があってつらい”――これは本当につらいだろうな、と思います。それを克服できる人間なんていないと思います。
ただ、本当につらい、どうすることもできないくらいつらい(しんどい)ならば、その人間関係はそもそもうまくいってないのかもしれません。
「つらいけど、嬉しい」「嬉しいけど、つらい」。このとき、嬉しいが勝つならば(または、相手への信頼が勝るならば)、その人間関係は維持すべき、というか、自然と続いていくと思います。つらさ/しんどさが大きいなら、それは合っていない、自然と離れていく関係だと思います。
ですので、今現在は気持ちも関係性も不安定かもしれませんが、その状態が永久に続くことはなくて、どこかしら、最後には自然な結果に落ち着くと思います。深刻に考え過ぎないほうがいいと思いますよ。
では、何かの参考なれば。

恨みや憎しみは、どうしたら終わりますか。

非常に大きなテーマで、まったく答えられる自信がないのですが…。
“いじめはなくならない”というのと似ていて、恨み憎しみは、人が生きる限り終わらない、なくならないような気がします。
が、とはいっても、自分の意識次第で、変えていける部分もあるんじゃないか。
「恨みや憎しみは、どうしたら終わりますか?」と問うたとき、「では、自分に恨みや憎しみはないのか?」と自身にも問うてみる。そうすると、みえてくる展望があって。
人間を総体的にみると、恨みや憎しみをなくすなんて、私個人にはできそうもない。けれど、個人のレベル、自分の範囲内なら(あくまで“自分の範囲内”ならば)、いくらか関われるんではないかと。手の届かないところはどうすることもできませんが。
恨みや憎しみといった、壮大なテーマを考えるときは、それを人類に問うのではなく、まずは自分自身(身近なところ)にその問を落としこんでみると、解決方法というか、展望がみえてくるような気がします。えらそうにこたえてすみませんが…。以上です。

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