.私はそういう方向で考えていますので答えにくいんですけど、そうでない側からするとたとえば、生身の人間による実践の部分をあまり排除しようとすると形式的になりすぎたり、あるいは先例を繰り返すだけになったりして、個別具体的な事情をうまく汲み取れなくなってしまうのではないか、といった感じだと思います。もし、AI が高度に発達して、そういった柔軟性をも人間以上に身に付けるようになったとしたら事情が変わるかもしれませんが、これはちょっと最初から反論させない感じの論法なので、現時点であまり強めに言うのもどうかと思います。また、仮にそういう AI 裁判官ができたとしても、多くの人々は(少なくとも慣れるまでの間?)生身の人間に裁かれたいと思いそうです。ある程度のブレがあることが逆に信頼につながっている部分もありまして(現状でもまるっきり機械的に判決をくだす裁判官より、なんかよくわからないところもある大岡裁きをしてくれる裁判官のほうが安心できる場合もあるでしょう)、これは裁判の目的が単に勝ったり負けたりだけではない納得の要素を含んでいることの現れといえます。もちろん、何に納得するのかは慣れの部分も大きいので、完璧な AI 裁判官に人々が慣れる時代もいつか来るのかもしれません。
.私は杓子定規な法形式主義者なのでご指摘のことはわかりますけど、実務的な感覚はどうなのだろう。記述的にはもちろん、条文に現れない、さまざまに不純な要素が入り込んでいるわけですが、それが法的ルールの枠内にとどまっている限り、法の支配を脅かすようなおおげさな話ではないと考えるか。あるいはその枠内で営まれる法律家たちの自由な実践がまさに「法」を作り上げているんだぐらいに強めに考えるか。いずれにせよ、「法の支配」という「理想」を、属人的な要素のまるっきりの排除という意味で考えている法律家はそんなに多くないと思います。これは最高に発展した AI に裁判を任せてよいか?という論点にもつながりますね。